第十二話 血の洗礼と夜明けの遠さ
深夜二時。アパートの前の道路を走る車の音さえ途絶え、世界が静まり返った時間。
六畳間のなかだけは、依然として戦場のような熱気と、噎せ返るような血の匂いが渦巻いていた。
「……っ、が……あ、ぁあ……っ!」
菊人の身体が、またしても激しく跳ねた。剛の腕を噛みしめる力は、数時間が経過してもなお衰えることを知らない。それどころか、幻覚が酷くなるたびに、顎に力がこもり、剛の筋肉の深いところまで歯が喰い込んでいく。
剛の感覚は、もうすでに「痛み」を超越して、妙に冷静な静寂の中にあった。腕を伝って、細く流れ落ちる血が、床の畳に黒いシミを作っていくのを、どこか他人事のように眺めている。
「……菊人、まだ……聞こえるのか?……どんな声だ?……言ってみろ」
「……」
剛が掠れた声で語り掛けると、菊人の喉の奥から、ヒュッ、ヒュッ、という、肺を削るような呼吸音が漏れた。菊人の瞳は、天井の隅に巣くう「何か」を必死に追い、見えない敵から逃れるように剛の胸板に頭を打ち付けている。
(ああ……三日、か)
剛は、朦朧とする意識の中で、直樹の怯えた顔を思い出していた。
あいつは正しかったのだ。これは、まともな人間が立ち入っていい領域じゃなかった。
剛は知らないが、メディアが注目しているであろう「至宝」はたまた、それの関係の者が今、ただの肉の塊となって薬が切れた禁断症状にのたうち回っている。その醜悪で同時にあまりにも生々しい姿を見ているのは、この世界中で、剛一人だけだ。
「……ははっ。……独り占めってわけだ。こりゃ」
剛は自嘲気味に笑った。
神無月家に関わる者たちや、熱狂的ファンらが決して見ることのできない、菊人の最も無防備で、最も汚れた真実。
それを今、自分だけが全身で受け止めている。その歪んだ優越感にも似た感情が、折れそうな剛の精神を支えていた。
突然、菊人の身体から力が抜け、噛む力がフッと緩んだ。
剛が腕を引っ込めようとした瞬間、菊人が今度はその傷口を舐めるように、震える唇を腕に押し当てる。
「……剛……ちゃん……。……いたい……よね?……殺して……。もう、いい。……うちを……殺してよう……」
やっと出た、菊人からの意味のある言葉。
それは、救いを求める声ではなく、死を願う絶望だった。
「……バーカ。俺を殺人犯にするつもりか?……殺すのは、俺の仕事じゃねえな……悪いけど」
剛は、血に濡れた右腕をそのままに、左手で菊人の汗ばんだ顔を包み込み、自分の胸へと押し付けた。
「……生きろ……そうだなぁ……不味い鉄の味(血)を堪能したかな……生きて……朝になったら、またあのくっそ不味いお粥でも煮てやるよ」
「……うわぁぁぁぁん」
菊人は剛のTシャツを掴み、子供のように声を上げて泣き始めた。
まだ夜は半分も過ぎてはいない。
窓の外、薄闇の空には、無情なほどに冷たい星が光っていた。
剛は、自分の血で赤く染まった菊人の口元を見つめながら、これから幾度となく繰り返されるであろう「地獄の夜」の全責任を、自らの背中に背負い直した。
くそ不味いお粥……ただの残飯を湯で煮たやつです。




