第十三話 生存の蹂躙
深夜三時を過ぎた頃、菊人の錯乱はピークに達した。
それはもはや「苦しんでいる」というレベルではない。菊人の身体は、剛の腕に噛みついたまま、まるで高電圧の電流を流されたかのように、不自然な角度で激しくのけぞり、のたうち回る。
「……っ、が……う、ぁぁああああああぁぁぁぁっ!!」
言葉にならない咆哮。剛の右腕からは、さらに深く食い込んだ歯によって新たな鮮血が噴き出し、菊人の喉を、顔を、そして剛の視界を真っ赤に染め上げる。
剛は、自分の右腕の骨が軋む音を聞いた。
あまりの激痛に視界がチカチカと明滅し、意識が遠のきそうになる。だが、今ここで腕を引き抜けば、菊人は、その勢いで自分の舌を嚙み切るか、あるいは激しい痙攣の中で心停止を起こすかもしれない。
不安は尽きない。
「……離せねえな……離すか……よ。……ここまで来たんだ……意地でも死なせて……たまるかよ……っ!」
剛は血まみれの左手で、菊人の顎を外側から固定し、外れないように見守る。
もう、戦いであった。
神無月の家が何年もかけて菊人に与えていた薬という名の「呪い」と、剛という、ただ一人の「人間」の、どちらの執念が勝つかという、壮絶な戦いだ。
菊人の瞳からは、人間らしい光が完全に消失していた。幻覚の中で、彼はかつて自分を虐げた親や、死んだ妹の亡霊、あるいは自分を偶像として崇める不特定多数の「視線」に追い詰められているのだろう。その全てを拒絶するように、彼は自分を抱きしめている剛の身体を、狂った力で殴り、蹴り、爪を立てた。
剛の全身に、痣と傷が増えていく。服は破られ、床は二人の汗や血や他のもので、泥濘のような有様だった。
だが、剛の心臓は不思議なほど静かに、かつ激しく燃えていた。
(……見ろよ。神様だろうが、至宝だろうが……。皮を剥けば、ただの生きることに必死な動物じゃねえか)
奇麗事なんて一つもない。ここにあるのは、汚物と、痛みと、生への執着だけだ。
剛は、自分を「蹂躙」し続ける菊人の重みを、全身で受け止めることに没頭していった。
やがて、菊人の喉からヒュッという虚ろな音が漏れ、噛みしめていた顎が、脱力するようにゆっくりと開いた。
剛の右手が解放された。
そこにはもはや、肉の塊と化した、無残なまでの歯形の溝が刻まれていた。
剛は震える手でその傷を抑えることもしないまま泥のように床へ沈み込んだ菊人の、まだ痙攣し続けている細い指をしっかりと握り締めた。
「……もう、寝ろ。……今のうちに、寝ちまえ……次に目が覚めてもな、ちゃんとここに居てやるから……」
菊人は、剛の血の付いた顔で、意識を失う直前に一瞬だけ、剛と目を合わせた。剛を「見た」のだ。
それは、神を仰ぐ信者の目でも、恋人を思う瞳でもない。
自分を殺さず、ただそこに存在することを許した「唯一の生存の証」を、確認するような目だった。




