第十四話 静寂の領土
どれ程の時間が過ぎたのだろうか。
菊人の身体から最後の一滴の力が抜け、床に沈み込んだ瞬間、部屋から全ての「音」が消えた。
耳鳴りがするほどの、壮絶な静寂。
さっきまでの獣じみた咆哮も、肉を噛みしめる生々しい音も、爪が畳を引っ掻く不快な音も、全てが嘘だったかのように静まり返っている。ただ、二人の重い呼吸音だけが、澱んだ空気の中で重なり合っていた。
剛は、痺れて感覚を失った右腕を力なく床に投げ出して、壁に背を向けてずるずると座り込んだ。
全身が、自分のものとは思えないほど重い。汗と血が混じり合って肌に張り付き、体温を奪っていく。
足元では、菊人が糸の切れた人形のように横たわっている。
口元は血で汚れ、半開きになり、その頬は土気色を通り越して白磁のように青白い。だが、その胸元は、浅く、けれど確実に上下を繰り返している。
(……終わった……勝った、のか?……)
剛は震える手でポケットを探り、直樹が置いていったタバコを取り出そうとした。だが、指が血で滑って上手く掴めない。諦めて放り出すと、畳に落ちた箱が乾いた音を立てた。
今の菊人には、「神無月」という名前の看板も、何も届かない。
この閉ざされた静寂の中で、彼はただ、剛の肉を食らい、剛の腕の中で生き延びた一匹の「生き物」に成り果てていた。
剛は、自分の右腕に刻まれた壮絶な歯形をぼんやりと見つめた。皮膚は裂け、どす黒い内出血が広がり、一部は欠損している。一生消えることのない、醜い、歪な、けれど誰にも奪うことのできない「記憶」だ。
「……本当に『あかんやつ』だな……これは」
剛は、枯れた声で、ボソッと呟いた。あんなに心配しながらも、逃げ出した直樹の顔が浮かぶ。正しいのはあいつだ。まともな人間は、こんな血だまりの中で安堵などしない。
だが、剛は不思議な充足感の中にいた。
たとえ世界が彼を「神」として崇めようと、一族が「至宝」として縛り付けようと、この男の最悪の泥濘を知り、その命を腕の中で受け止めたのは自分なのだ。
夜明け。
剛はまだ、震えの止まらない左手を伸ばし、菊人の額に触れた。熱はまだ引いていない。けれど、その肌の冷たさが、彼がまだ「こちら側」にとどまっていることを伝えていた。
二人の戦いは、終わったわけではない。これから、もっと長く、出口のない日常が始まる。
剛は、意識を失ったように眠る菊人の隣に身を横たえ、重い瞼を閉じた。
右腕の傷が、夜明けの冷気の中で、ズキリと、誇らしげに脈打った。




