第十五話 余熱と夜明け
さて、嵐が過ぎ去った後のような、酷く静かな夜だった。
六畳間の古びた畳の上、菊人は剛の隣で泥のように眠っている。
数日間続いた激しい離脱症状。
のたうち回り、叫び、剛の右腕に噛みついたあの狂乱が、嘘のように引いていた。
剛は、寝汗で張り付いた菊人の髪を、節くれだった指でゆっくりと梳く。
「……ん、……剛ちゃん?」
菊人が、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。瞳にはまだ微かな混濁が残っていたが、その瞳に映っているのは、クスリが見せる幻覚ではなく、間違いなく「剛」という現実だった。
「……起きたか?……水……飲むか?」
菊人は小さく首を振る。
「……剛ちゃん?……うち、また噛んだんか?……堪忍してな……ご免やで……」
菊人の口から漏れた、掠れた京言葉。彼は震える指先で、剛が不器用に巻いた血の付く包帯をそっとなぞった。
「……おう、謝るぐらいなら最初からやんな」
と軽く剛は笑って見せる。
「……あーあ、これからどうすっかなぁ。……大学もこのままじゃあヤバいだろうし、バンドにも見捨てられたし……」
菊人に言っても無駄だと思ったが、直樹達の顔が剛の脳裏にふとよぎった。真っ当な道、バンド、これからの未来。それら全てを天秤にかけて、剛は今、この目の前の「あかんやつ」を抱え込むことになってしまった。
「……剛ちゃん。うちは……うちはもう、神無月には戻りとうない。あそこにはもう……うちの場所なんてどこにもあらへんかったんよ」
菊人は剛のTシャツの 裾をギュッと掴み、今にも泣きだしそうな顔で縋りついてくる。
その姿は、世間が崇める「神無月 綾」の片鱗もなく、ただの捨てられた小動物のようだった。
「……分かってるよ。……手遅れなんだよ、お前も……お前に付き合っている俺も……な……」
剛は乱暴に、けれどどこか慈しむように菊人の後頭部をぐいと引き寄せた。
六畳間の古びた畳、壁には湿気のシミ。
外からは、何食わぬ顔で学校や会社へと出勤していく人々の声が聞こえてくる。
友人を失い、未来を捨て、「あかんやつ」の傍らに暫くは居てやろうと決めた。
右腕の痛みは、その契約を交わした証のようなものだ。
朝日が差し込まない薄暗い部屋。そこには、世の中の誰も知らない、そして誰も入り込めない立った二人だけの「幸せな地獄」が始まるのだった。




