第十六話 影の吐露
その夜の事だった。剛は、菊人がようやく静かに眠りについたと思っていた。けれど、暗闇の中で、菊人の声は、ひどく透き通った子供のような響きで漏れ出した。
それは後悔でも懺悔でもない、長年心の奥底に溜まっていた腐敗した純粋な「恨み」だった。
「……ねえ、剛ちゃん……綾はねえ、身体がごっつう弱くてね、お家の仕事なんか、ぜんぜん出来へんかったんやん。……だからねえ、うちが代わりにやるしかなかったんよ。……うちがちゃあんとやらんとねえ、綾が怒るんやもん。お父はんもお母はんも、必死で綾の世話しながら泣いとった。なんでも綾ばっかりや……いいなぁ。綾がねえ、はじめっから、みーんな独り占めしよったんよ」
菊人は天井を見つめたまま、感情の起伏を押し殺した小さな声で一気に続けた。
剛は黙って、自分の腕に刻まれたばかりの歯形を、暗闇の中でなぞった。
「……ほいでもなぁ、綾には『お兄ちゃんはズルいわ』って言われててんけどな。何がズルいんや……ズルいんは綾のほうやろ?……うちが必死で舞台に立ってる時、綾は冷房の効いた部屋で、お母はんに膝枕してもうて、うちの演舞をテレビで観とったん。……うちが稽古ですり足で裏に血を滲ませて痛がっても、綾は『お兄ちゃんは皆に褒めて貰えて一番ズルいわ』って泣いとった。……綾が泣いとったら、お父はんは決まってうちに怒り出すし……誰も助けてくれへん。……うちはどうしたらええんか困っとったに。……うちかてがんばってがんばって、一杯我慢しとったんやけどなぁ……ふふっ……あほみたいやなぁ」
菊人が、泣きながら「ふふっ」と短く笑った。その笑い声には、乾いた砂のような冷たさが混じっている。
「……綾が死んだ時、ほんに嬉しかったわ。心からや……やっとうちの役目は終わった、うちは「菊人」に戻れると思うとった。でも違ったわ。お父はんもお母はんも、うちの顔を見て『綾が生きとったら、良かったに』っていつも泣いとんよ。綾とうちとは全然ちゃう顔しとったのにねえ。……もうあかん、見てくれへんて分かっとっても、ほいでも、うちがんばったんよ。一杯一杯がんばって……綾の服着て、綾の化粧して、綾の名前で踊って……でも綾は死んでからも全部……ずっと独り占めしよったんよ、剛ちゃん……やっぱりズルいよねえ?」
「……そうか」
そっけない剛の言葉とは裏腹に、態度は優しい。
「……気が済んだなら……もう寝ろ。綾ってヤツもお前の親もここには居ねえよ。……ちゃあんと「菊人」に戻ってる。いや……お前は、ただの「菊人」だろ?」
「……うん、そうやね……そうやね……」
「あかんやつ」に「あかんこと」を聞いてしまった剛。こうなっては今更、神無月家にも返すことは出来ない。
この感情は、単なる「おかしなガキ」じゃなかった菊人を抱え、それはもう愛情というよりも、理不尽に虐げられる弟を守る兄のそれに近いかもしれない。
問題は山積み。おまけに明日もまた「育児」の領域に近い仕事が待っている。
先の不安は大きいが、剛も菊人の体温を感じながらいつの間にか眠ってしまったのだった。




