第十七話 聖域の崩壊 1
離脱症状もおさまり、菊人がなんとか剛に薄い粥を食べさせて貰っていた日のことだ。
薄暗い廊下に、この古い木造アパートに似つかわしくない、革靴の音が止まった。
叩きつけられるようなノックの音に、菊人の肩がビクンと跳ね上がった。
「浜崎様……ですね?……お友達から連絡を頂きましてね。菊人様をお迎えに参りました。……病人を預かって頂き、誠に感謝しております」
ドア越しに響いたのは、神無月家関係の感情を排した声だ。
剛は、奥歯を噛みしめる。
(直樹……っ。あいつ、やりやがったな)
バンドの練習にも出てこない。電話にも出ない。勿論大学にも。……案じた直樹が、こっそり神無月家に連絡したのだろう。
剛は頭が真っ白になった。背後で菊人が小さくなってガタガタ震えている。
「いや……嫌や。……剛ちゃん、うち、行かなあかんのん?あそこは……地獄や。うち、帰らへん」
「大丈夫だ……菊、しっかりしろよ……」
剛は菊人を宥めて、玄関に向かって声を上げた。
「ここは俺の家だ!……不法侵入で警察呼ぶぞ!」
「……呼べばよろしい……けど、警察が来て困るのはあんさんの方と違いますか?」
今度は、低い重い女性の声が響く。
神無月当主、神無月 志野。
ボロアパートの、剥げかかったペンキの廊下にはあまりに不釣り合いな、豪奢な着物姿の志野がそこに立っていた。彼女の指示で、付き人たちをさっと退かせると歪んだドアを冷ややかに見据えた。
「……浜崎はん。あんさんのお友達に感謝しますわ。……お陰でようやく見つけることが出来ましたわ」
古びたドアのむこうから、志野のゆるぎない声が突き刺さる。
「開けなはれ!菊人、おんのやろ?……話しまひょ」
剛は、自分の背中に爪が喰い込むほどしがみ付いている菊人の震えを感じていた。けれど、このまま立て籠もっていても、神無月という巨大な力に押し潰されるのは時間の問題だという事も、自分の人生が既に詰みだという事も理解していた。
「……菊人。大丈夫だ……大丈夫。俺はお前を帰す気はないから」
剛は、菊人の耳元でそう囁くと、覚悟を決めて鍵を回した。
錆びた蝶番が耳障りな音を立てて開き、アパートの埃っぽい空気が、志野が纏う沈香の香りとぶつかり合う。
志野は、ドアが開くと同時に、狭いげんかんに躊躇なく足を踏み入れた。背後の者を手で制し、たった一人で。
「……変わり果てた姿やね」
志野の第一声は、同情よりも先に神無月の至宝をここまで「人間臭い」絶望の中に置いたことへの、冷たい評価であった。




