第十八話 聖域の崩壊 2
菊人は、志野の姿を見た瞬間、言葉にならない悲鳴を飲み込み、剛のシャツの胸元をぎゅつと握りしめて顔を伏せる。目を合わせようとは決してしない。
「おい、あんた……これ以上こいつを怖がらせるなら、家元だろうが何だろうが追い出すぞ」
剛は低く唸るように言った。
志野は、そんな剛の不敬な態度を気にする風もなく、狭い六畳間の様子をぐるりと見渡した。
脱ぎ捨てられた衣服、飲みかけのペットボトルの水、そして、剛が懸命に菊人を守ろうとした痕跡が残る布団。
「……浜崎はん。あんさんのお友達がうちに泣きついてきましてなぁ。『あんさんが神無月の行方不明の人間を隠しとる。おかしゅうなっとる』てね。……律儀な男やねえ、あんさんの身を案じて、わざわざ連絡してくれたんどすわ」
志野の言葉が、剛の胸に冷たい刃となって突き刺さる。剛は、直樹の「正義感」が、自分と菊人をどん底に突き落とした事実に吐き気を覚えた。
「……あいつは関係ねえよ。それより……菊人、こいつを神無月家に連れ戻すつもりか」
剛が問い詰める中、志野は部屋の真ん中に立ち、鼻を覆うようにしていた扇子をぴしゃりと畳んだ。
「連れ戻す?……そうやねえ、こんな日の当たらん場所で、死人のような顔をさせておくよりは、マシやと思いますわ」
志野の視線が、再び菊人に向けられた。
「菊人。……あんさんは、そこで震えとるだけか?浜崎はんの背中で、ずっとこうしたまま、ここで一生を終えるつもりかえ?」
その言葉は、菊人の心の最も脆部分を容赦なく抉り出した。
「……帰らへん」
最初は小さい声だった菊人の声は、やがて叫びに変わった。
「帰らへんわ!……あそこは、うちのお家やあらへん!剛ちゃんとここに居る。……死ぬまでおるんや!」
剛の背中に顔をうずめたまま、菊人は泣き出した。
その声は、かつて舞台で見せていた嫋やかな鈴の音のような声ではなく、掠れ、震え、本当に人間らしい拒絶の響きだった。
志野はその言葉を真っ向から浴び、一瞬、目を見開いた。彼女の顔が、複雑に歪んでいる。
それは怒りでも、裏切られた悲しみでもない。今まで「はい」や「おおきに」しか言わなかった、自分の掌の中の人形が、初めて自分に歯向かって「牙」を剥いたことへの衝撃……そして奇妙な「安堵」だった。
(菊人……あんさんは今……その言葉を自分で選んだんやね)
志野は悟った。菊人にとっての神無月家は、針の筵であり、この汚い六畳間こそが彼が初めて見つけた「自分の居場所」なのだという事を。
志野は長い沈黙の後、ゆっくりと扇子で口元を覆い、その鋭い眼光を剛へと向けた。
「……浜崎はん、あんさん、この子の言葉、聞きはりましたか?」
剛は自分にしがみつく菊人の細い腕を壊さないように、そっと包み込んでいる。大丈夫、大丈夫だと声を掛けながら……。
志野は、二人の姿をじっと見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……一度屋敷で話し合いまひょ。……それまでは、手出しはしまへん」
志野のその一言は、事実上の停戦協定であり、同時に、二人を神無月家の土俵へと引きずり出す招待状でもあったのだ。
剛は、自分にしがみつく菊人の肩を抱き締め、迷うようにその瞳を見つめた。
菊人の瞳には、神無月家への根深い恐怖が渦巻いている。けれど、志野が言う通り、このままこのアパートに隠れ続けていても、いつかは「直樹」のような綻びが現れるかもしれないのだ。このままでは生活もままならない。
「……菊人。一度、決着をつけに行こう。俺が、必ずお前を連れて帰ってやる」
菊人は、剛のシャツをぎゅうっと握りしめ、震える声で答えた。
「うん……剛ちゃんとなら、行ける……うち、ちゃんとあそこを捨てたい……」
うーん、菊人は六畳一間に住みたかったの?ちがうんだけどなあ。




