第八話 決別と逃走
直樹は、ドアノブを掴んだまま、部屋の奥で震える菊人から視線を逸らした。
その瞳に宿る、この世のものとは思えない壮絶な美しさと、薬に蝕まれた廃人のような虚無。その矛盾した存在感が、直樹の生存本能を激しく逆なでしていた。
「……剛。お前、自分が一体何しているか分かってんのか?」
直樹の声は、怒りよりも恐怖で上ずっている。
「ニュース観てなかったのかよ!今、日本中で『神無月 綾』が消えたって大騒ぎになってんだぞ。家元とか伝統芸能とか、そんな奇麗なモンじゃねえ。あそこは政財界にまで根を張っているバケモノ一族だ……その『綾』本人か、それとも深い関係者か知らねえが、そんなモンをこんなおんぼろアパートに隠して……見つかったら、お前、誘拐犯として人生終わるどころじゃ済まねぇぞ。……消される、文字通り、この世から消されるんだぞ!」
剛は、離脱症状の小さい引きつけを起こし始めた菊人の背中を、無言で、けれど力強くさすり続けている。その平然とした横顔が、直樹にとっては狂気にしか見えなかった。
「……剛、頼む。今すぐそいつを病院に放り込むか、もしくは警察に突き出せ。匿名でもいい。出来なきゃどっかの公園にでも置いてこい!」
直樹は続ける。
「お前の人生だろ?なんでそんな、どこの誰とも分かんねえ『薬中のバケモノ』を匿うんだよッ!」
「……こいつは、バケモンじゃねえよ……菊人だ」
剛の低く、地を這うような声。
直樹は、その一言に込められた、常軌を逸した「執着」の深さを悟った。剛はもう、説得できる場所には居ない。
(……あかん。これは、絶対に関わったらあかん奴や……)
直樹は震える手で乱暴にドアを開けた。
そとから流れ込む夕暮れのぬるい風が、部屋に充満していた「薬と死」の匂いをかき乱す。
「……俺はもう知らん。お前がどうなろうと、もう知らねぇ!二度と連絡してくんなよ!」
逃げるように階段を駆け下りていく直樹の足音が、アパートの薄い壁に虚しく響いている。
バタン、とドアが閉まり、部屋には不気味なほどの静寂が戻った。
「ねえ……剛ちゃん……。あの人、うちを、捨てて来いって……言うたよね?」
菊人が、汗で張り付いた前髪の間から、怯えたような瞳で剛を見上げた。
剛は、自分の身体を抱きしめるように丸まっている菊人の頭を、乱暴に、けれど慈しむように撫でていた。
「……あいつは馬鹿なんだよ。……犬や猫じゃあるまいし……大丈夫だ。お前を捨てるぐらいなら、最初から拾ってこねえって」
「……ふふっ……そうなん……」
菊人は、焦点の合わない目で、笑っている。
ここでの社会との唯一のつながりだった直樹が去り、二人は完全に「世界」から切り離された。
剛は、自分の傍らの菊人を見つめながら、これから始まる地獄のような夜を、ただ一人で受け止める覚悟を決めたのだった。
久々に書いたら……凄く暗い話になってしまった。何故?




