第六話 羽化の兆候
剛が学校から戻り、錆びついたドアを開けると、部屋には独特の沈黙が満ちていた。
夕暮れの薄暗い光の中、菊人は布団の上で丸まっていた。だが、今朝とはなんだか様子が違う。
菊人は、剛がパジャマ代わりに脱ぎ捨てていた安物のグレーのTシャツを、胸元にぎゅっと抱きしめるようにして眠っていた。自分の布団からはみ出し、畳の上にこぼれたその姿は、飼い主に置いていかれた野良猫のようでもあり、あるいは何かに縋らなければ形を保てない壊れた玩具のようでもあった。
「……おい、何してるんだよ」
剛はバッグを下に置き、溜息を吐き出した。
菊人の真っ白な頬が、剛の匂いのする古着に押し付けられている。
その光景を見た時、剛の背筋を走ったのは、冷たい「ゾッとする」ような感覚だった。
……しかしだ、嫌悪感を抱くことさえ、今は許されない。相手は病人だ。
(……こいつ、俺がいない間、ずっとこうしていたのか?)
剛は、大きなため息を吐き出し、菊人の手からあえて、Tシャツを奪い取ることはしなかった。
代わりに、静かに横に座り、菊人の乱れた髪に触れる。
「……バカか、お前は」
その呟きは、菊人に向けた者か、あるいは自分自身に向けたものか。
ゾッとするような執着も、哀しいほどの依存も、すべて飲み込んで生きていくしかない。剛は、自分の輪郭が菊人の影と混ざり合い、消えていく感覚を、ただ静かに受け入れた。
剛は、自分の手で菊人の顔にふわりと触れた。
菊人は飢えた子供のように、剛の腕を掴み、その太い手首に鼻を押し当てる。
アパートの外では、夕暮れのチャイムが遠くで鳴り、子供たちの帰る声が聞こえてくる。
そんな「普通の日常」が流れるすぐ隣で、二人の時間が止まり、壮絶な戦いが幕を開けようとしていた。
「……行かんといてね。……うちを、置いていかんとって……」




