第五話 断絶した独白
安アパートの扉を開けた瞬間、重い空気が肺に流れ込む。菊人はいつものごとく朝と同じ格好で布団にくるまっていた。だが、様子がおかしい。
「……行かんといて」
小さな、掠れた声が聞こえた。
剛が声を掛けるよりも早く、菊人は震える唇で、執拗にその言葉を繰り返していた。
「……綾ちゃん、置いていかんといて……ちゃんとするわ……綺麗にしとく。……お師匠はん、お師匠はん……申し訳ありまへん」
菊人の瞳は開いているが、そこには剛の姿は映っていない。
見ているのは、此処ではないどこか。
古い日本家屋の、陰惨で美しい「監獄」の光景なのだろうか。菊人の指先は、実体のない「何か」を求めて空を掻き、力なくシーツを掴んでいた。
「……綾、どこ?痛いよォ。……捨んといて……っ」
それは、剛にむけられた依存の言葉では無かった。
自分の価値を「誰かに管理されること」でしか見いだせない人間が、その管理を失うことを恐れて放つ、根源的な悲鳴だ。
剛は、その光景に激しい拒絶感を覚えた。
目の前には俺がいるのに、こいつはまた、ゴミ捨て場から拾い上げられる前の状態に戻ろうとしているのか。
「……おい、菊人!しっかりしろ!」
剛は菊人の肩を掴み、乱暴に揺さぶった。
「お前、誰に言ってんだよ。そこには誰もいねえよッ!俺を見ろ、俺は此処だ!」
剛の叫びが狭い部屋に響き、菊人の瞳に微かな光が戻る。
視点がゆっくりと剛の顔を捉え、菊人はハッとしたように息を呑んだ。
「……あ……ご、剛ちゃん……?お帰り……」
菊人の表情が恐怖から、別の何かにそっとすり替わった。
自分が今「どこ」にいるのかを思い出した菊人は、力なく下を向く。その首筋は、本当に折れてしまいそうに細い。
「あのぅ……申し訳ありまへん……またおかしな事を……変やねえ……」
言葉遣いも、支離滅裂。剛は自分の右手が小刻みに震えていることに気づく。
こいつの世話を焼くために、大学の講義をサボり、バンドの連中に不義理を働いている。
俺は何をやっているんだ。
訳の分からない男の、訳の分からない過去に、自分の生活が浸食されていく。
(チッ……本当に、訳分かんねえよ、お前)
剛は苛立ちをぶつけながらも、テーブルにとりあえずの食事を並べる。
「メシだ。食えなきゃまた粥にすっから、少しでも腹に入れろ」
菊人は自分に向けられた剛の「苛立ち」を、まるで慈雨であるかのように受け止めた。
無視されることよりも、捨てられることよりも、この荒々しい怒りこそが、今の彼を現実に繋ぎ止める唯一の碇であった。
剛は、ポケットの中で震え続けるスマホを取り出すこともせず、ただ、目の前の「壊れたピース」をどう繋ぎ合わせればいいのか、答えの出ない問いを飲み込んでいた。
またまたやっちまった。全消し。




