第四話 狂い始めたリズム
今頃、剛が参加するバンドの連中は居酒屋で、次のライブの打ち合わせをしているはずだ。
それを蹴ってまで、名前も素性も良く分からない、箸一つ自分で持てない男の面倒を見ている。
「普通」の大学生としての人生が、指の間から砂のように零れ落ちていくのが分かった。
「……ほら、あーんしろ」
剛は、自分の手でゼリーを一口ずつ、菊人の唇へ運ぶ。
菊人は、申し訳なさそうに瞳を潤ませながら、小さな口を開けてそれを受け取った。
剛の指が、菊人の唇に触れる。その瞬間、菊人がすがるように剛の開いた方の手首を掴んだ。
その力は、食事もできないほど衰弱しているとは思えないほど、必死で強固だった。
「……剛ちゃん……あんな……もう、捨てんといて。うちは……うちは、もう……行くとこないねん」
「はいはい、分かったから……食えよ。食わないと、どうしようもねーだろ」
(もう、捨てんといてって……?ん?……捨てられたのか?)
剛は突き放すような言い方をしたが、掴まれた手首を振り放そうとはしなかった。
この男の世話を焼くたびに、剛の生活という「パズル」は、取り返しのつかない形に組み替えられていく。
やがて、大学の仲間からの着信がポケットの中で震え始めたが、剛はそれに応じることなく、ただ自分を「神」か何かのように見つめる菊人の、虚ろな瞳だけを凝視していた。
剛の生活リズムが崩れていく。
大学の講義はとうにさぼり気味になり、バンド練習にも顔出しだけが精一杯になってきている。だが、その練習中も彼の意識はスタジオの防音壁を突き抜け、あの湿った自分のアパートの六畳間に飛んでいた。
(……あいつ、また吐いてねぇか。一人で水ぐらいは飲めているかよ)
ドラムのビートが、わずかに走りだす。
「……ストップ!ストップッ‼ おい、ハミィ(浜崎)、今のは走りすぎだぞ。どうした?」
リードギターに怪訝な顔をされ、剛は「ワリィな……ちょっと寝不足」と適当に誤魔化した。
今の剛にとって、バンド仲間との談笑も、次のライブの打ち合わせも、どこか遠い出来事のように感じられた。目の前にあるスネアやタムを叩くスティックの感触よりも、昨日洗ってやった菊人の、あの透けるような白い背中の感触の方が今の剛には「現実」だった。
バンド仲間と交わす言葉が、まるで異国の言葉のように響く。
剛は慌てて練習を早々に切り上げ、逃げるようにアパートに戻っていった。




