第三話 調律の不協和音
剛の目の前の男……菊人は、今の自分の状況も、剛がどれ程の決死の覚悟で彼を拾い上げたのかも分からないようで、布団の中で不気味に微笑みを浮かべている。
だが、その彼の「疲れたわ」という言葉が、単なる肉体的な疲労ではなく、二十年積み重なった魂の摩耗であることを、剛はまだ知らない。
「……ああ、分かった。勝手にしろ。粥、枕元に置いとくからな」
剛は、苛立ちを隠そうともせずに立ち上がり、乱雑にテレビのスイッチを入れる。
画面から流れる朝の情報番組の音だけが、この浮世離れした気配が漂う部屋を無理やり現実に引き戻そうとしていた。
剛の背中を見つめながら、菊人は布団の中で幻影の妹ではなく、彼が持っていたスプーンの温かさを反芻していた。
剛の大学生活は、その日を境に、壊れた時計の針のように歪み始めていった。
講義の出欠を確認する代返を友人に頼み、サークル棟のドラムセットに向かうことも無くなっていった。今に剛の居場所は、昼間でも薄暗い、あの六畳一間のアパートだ。
菊人を一人にしておくことが、どうしてもできなかった。
アパートに戻ると、菊人はたいてい、剛が家を出た時と同じ姿勢で布団にくるまっている。
死んでいるのではないか。息はしているか。
そう思って、心臓が跳ねるたび、剛は荒っぽく布団をはぎ取ってみる。
「おい!菊人。いつまで寝てんだ、少しは動け。……ッたく、カビが生えちまうぞっ!」
菊人は眩しそうに細い指で目を覆いながら、ゆっくりと上体を起こす。その肌は、数日たっても相変わらず、気味が悪いほど滑らかな白さを保っていた。
「……ああ、お帰り、剛ちゃん。……今日は昨日より風の音がうるさい気がするわ」
菊人の言葉は、いつも浮世離れしている。剛が必死に現実の「時間」を刻もうとしても、菊人の周りだけは、神無月の屋敷から持ち込んできた停滞した空気の中に沈んでいるようだった。
剛は適当に選んで買ってきた、栄養補助食品や、消化の良さそうなものを取り出し、テーブルに並べた。
「メシ、食うぞ。……今日は自分で持てるか?」
剛がゼリー飲料のキャップを開け、菊人の目の前に差し出した。菊人はそれを手に取ろうとして、細い腕を伸ばしたが、指先がパウチの容器に触れる直前で、力なく止まった。プルプルと生まれたての小鹿のように腕が震えている。
菊人は自分の手が、自分の意思に反して動かないことを確認すると、ただ、悲しそうに下を向いた。
その項垂れた首筋が、折れてしまいそうなほど細い。
「……あのな、お前、いつまでそうやってんだよっ!メシぐらい意地でも自分で食ってみろよ!」
剛の大きな声が、狭い部屋に響き渡った。
大学で上手くいっていない苛立ちか、それとも自分に縋るしか出来ないこの男へのもどかしさゆえか。
菊人はビクンと大きく身体を震わせ、更にふかく頭を垂れた。
長い沈黙。聞こえるのは、安物の冷蔵庫が唸るモーターの音と、剛の荒い鼻息だけだ。
「……チッ……ごめんな。怒鳴るつもりじゃなかった」
剛はガシガシと頭を掻きむしり、再び菊人と膝を突き合わせて座り込む。
(なんなんだ。なんだよ、これ……俺、一体何やってんだ?)




