第二話 欠けたピースが、出会った日
六畳一間のアパートに差し込む朝日は、残酷なほどに現実を照らし出していた。
剛は、自分の布団で眠る「それ」を小さなローテーブルの前に座って眺めていた。昨晩、ゴミ捨て場から拾い上げてしまった、得体の知れない存在。
その場で救急車を呼べば良かったのだろうけれど、いろいろ事情を聴かれるのが面倒くさかったのだ。
狭い部屋にあるのは、画質の悪い小さなテレビと、衣類がはみ出したプラスチックの収納ボックス、そして二人座ればいっぱいの安物のテーブルだけだ。その上には、剛の大学の講義ノートが無造作に放り出されている。
「……マジかよ」
剛は、自分のごつごつした手を眺める。
昨夜、人形のようなこの男を、狭いユニットバスで洗ってやった時の感触が、まだ指に残っている。二十歳そこそこの男の体格をしているはずなのに、まるで本物の陶器のように、肌には産毛の一本すら見当たらない。筋肉も、骨格も、何者かの手によって徹底的に管理され、無駄を削ぎ落とされた「完成品」。
ふいに、菊人の睫毛が震えた。
ゆっくりと開かれた瞳は、光を拒むように何度か瞬きを繰り返す。
「……ここ……何処や?」
掠れた、酷く心細げな声だった。
菊人は身を起こそうとしたが、すぐに猛烈な吐き気に襲われたのか、口元を押さえて崩れ落ちた。
「おい、大丈夫か!」
「……っ、ぅ、あ……」
剛が慌てて差し出したゴミ箱に、菊人は胃液を吐き出した。昨夜飲んだであろう錠剤と、わずかな水だけが混じっている。
菊人は真っ青な顔で、脂汗を浮かべながら、すぐ傍に居た剛のシャツの裾を必死に掴んだ。焦点の合わない目で、剛を見上げ、記憶の断片を繋ぎ合わせようとする。
「……あんた……昨日の……?」
「……ああ。ゴミ捨て場で死にかけていたお前を拾った……その……おせっかいな男だ」
剛は、朝ごはん用にと不器用に握っていた塩むすびを横に退けた。……いまのこいつに、固形物は無理そうだ。剛は舌打ちをしながらも、狭いキッチンの床に膝をつき、一人用の土鍋を取り出した。
「待ってろ。粥でもつくってやるから」
菊人は布団にうつ伏せになったまま、剛の背中をじっと見つめていた。
ふと、枕元に散らばっていた剛のノートが目に入る。表紙にはサインペンで『浜崎 剛』と書きなぐっていた。
「……はまざき、ごう……剛ちゃん?」
菊人がその名前をちいさく呟いた瞬間、剛の背中がびくりと震えた。
「おい、勝手に、人の名前を呼ぶんじゃねえよ……つうか、お前は?名前ぐらいあんだろ?」
「……きくと。うちは神無月 菊人」
菊人は、自嘲気味に口角を上げる。
「菊って……お葬式のお花なんよ。……うち、忌み嫌われてんねん」
ボソッと呟かれたその言葉に、剛は手を止め、振り返って鼻で笑った。
「そうとも取れるけどな……でもよ、確か菊ってさ……たしか帝の紋だったよな?お前……そっちの方が似合ってんじゃねえの?」
菊人は驚いたように目を丸くした。そんな風に自分の名前を肯定されたことなど、一度も無かったのだろう。
「ふふっ……剛ちゃんって、変な人やね」
ようやく出来上がった薄味の粥を、剛は冷ましながら菊人の口元へ運んだ。菊人は素直に口を開き、一口ずつ、ゆっくりと味わう。
「……美味しいわ。剛ちゃんの作るもんは、あのお屋敷のもんよりも……ほんまにあったかいで」
(ん?。お屋敷……ってなんだよ?……んまあ、名前からして、普通の家じゃねえみたいだけどな)
木造のボロアパート、換気扇の回る音と安物の土鍋から上がる湯気。そんな生活感の塊のような空間で、菊人の口から洩れる言葉だけが、別の時代の、あるいは別の階層の空気を纏っている。
剛は、粥を救うスプーンを握り直しながら、改めて目の前の男を観察した。
透き通るような肌。整い過ぎた容姿。そして、自分を葬式の花だと言い切る歪んだ自己愛。
「おい……お前、もしかして、どっかのすげぇ家のお坊ちゃまか何かなのか?」
剛の問いに、菊人は粥を飲み込み、小首をかしげた。
「……さあ?……うちにはわからへんわ。……なあ、剛ちゃん、もうちょっと寝とってもええ?なんや疲れたわ」
まるで小学生レベルの呼び方に呆れていた剛だが、それよりも驚いたのは、菊人の話し方だ。まるで散歩に行って、そこらで休みしたいとでもいうような、酷く間の抜けた口調でそう言ったのだ。
菊人はそのまま、剛の反応を待たずにとろりとした目で再び布団に潜り込もうとする。
「……疲れたから、ゴミ捨て場で寝てたって……ほーんと訳分かんねえヤツだな、お前」
剛は、差し出したスプーンを宙に浮かせたまま苦笑する。
訳の分からない奴を拾ってきて、必死に粥を焚いて、ようやく名前を聞きだしたと思えばこれだよ。
事情があるのは百も承知だが、それにしても、あまりに言葉が通じない。
(……何だよ。こいつ、まるで他人事のようなこの態度……)
剛の胸の内に、じりじりと焼けるような苛立ちがこみ上げた。




