第三十話 大人の階段と動かない至宝
剛はベッドの縁に腰掛けて、目の前に正座させた菊人に向かって、これ以上ないほど真面目な顔で一刺し指を立てた。
「いいか、菊人。よく聞け。お前はもう二十歳なんだぞ。……分かるか、この意味は?今は十八歳とも言っているが、二十歳ってのはな、世間じゃ立派な『大人』なんだ。その辺の大学生なら、一人暮らししていて、自分で飯食って、一人で寝るのが当たり前なんだよ……二十歳にもなった男が、一人で眠れないのはおかしいんだ!分かるか?」
剛の言葉は、常識という名の直球だ。しかし、菊人は抱えた枕に顎を乗せ、どこか遠くを見るような、目で、のんびりと答える。
「……うち、大学生やないもん。うちは、神無月の菊人やもん」
「ちがうっ!学歴や職業の話をしてんじゃねえよっ!生き物として、雄としての自立の話をしてんだよ!
俺だってな、これは仕事なんだ。お前の自立を助けるのが管理人の役目なんだぞ。志野のババァに『貴方の二十歳の孫をまだ添い寝させてます』なんて、恥ずかしくて報告できるか!」
「……ほんなら婆ちゃんには、うちから言うといてあげるわ。『剛ちゃんがいけずして寝かせてくれへんから、うち寝不足や』って」
「ちょっと待て!……その言い方ヤメろ」
(言い方が最悪だ。寝かせてくれないだと⁈……あのババァに勘違いされたら、どこかの海に沈められるかもしれない……)
剛はため息をついた。理屈を並べて、説明すればするほど、菊人の「のらりくらり」とした防御に交わされてしまっている。
剛は最後の手段として、少し声を落とし、諭すように言った。
「……あのなぁ、菊人さんよ。お前、いつまでも俺がいると思うなよ?俺がいなきゃ寝れないなんて体質になったら、困るのはお前の方なんだぞ」
すると、菊人はそれまでのはぐらかすような態度をピタリと止め、真っ直ぐに剛の目を見つめた。その瞳は二十歳の青年のものとは思えないほど、深く澄んでいた。
「……剛ちゃん。うちは二十歳とか、大人とか、そんなんどうでもええんよ。……剛ちゃんがいてへんかったら、うちはもう、どこにもおらんのんと一緒なんや……一人で寝るのが大人やったら、うちはずっと子供でええよ。だから、そこ、退いて!!」
「……っ」
自立を促そうとする剛の「正論」は、菊人にとっては「自分を切り捨てる準備」のように聞こえていたのかもしれない。
「……ったく。お前、そうやってすぐにズルいこと言うよな」
「ズルないよっ!本当の事やモン」
菊人は当然のように剛の隣のスペースを開けさせ、ひょいと滑り込んだ。
新しいマンションには、各々寝室があるのだが、菊人はほとんど使ってはいない、いや使わない。
「……分かった、分かりました。……けどな、来月になったら、その時は、もう一回この話し合いをするからな。絶対だぞ」
「…………お休み、剛ちゃん」
結局、説得は今回も失敗だった。
剛は、自分の「正論」がこの子には毒にしかならないことを悟りながら、大きなため息と共に電気を消すのだった。




