第二十七話 コロッケの味
都心の広いマンション。志野が用意した新しい「拠点」にアパートからの僅かな荷物を収めた剛は一人、リビングの備え付けのソファで大きなため息をついた。
「……大学、休学か。まぁ、そうだよな」
志野との契約の条件。それは菊人の世話を優先的にする事。その代わり、剛を苦しめてきた奨学金という名の借金は全て肩代わりし、当面の生活費も保証するという願ってもない条件であった。
『当面の生活費は入れておく。奨学金はもう、気にせんでもええで。そん代わり、大学は暫くは無理やで』
別れ際に志野が放った言葉を思い出し、剛は懐の通帳を握りしめた。
(……婆さん、幾らか入れてくれたんだ。引っ越し代とか、当面の生活費とか……俺のバイト代半年分ぐらいか……)
借金が消え、まとまった金が手元にある、それだけで、剛の肩の荷は驚くほど軽くなっていた。
剛は、すぐ帰るからと菊人を宥めて部屋に残し、近所の銀行のATMに立って通帳を差し込んだ。
(さあて、志野の婆さん、どれだけ太っ腹か拝ませてもらうぜ……)
……ジジ、ジジ……と機会がインクを刻む音が響く。やがて吐き出された通帳を手に取り、剛は一瞥して歩き出そうとした。……しかし。
「……え?」
目に飛び込んできた数字に、足が止まった。
【 オフリコミ 4,500,000】
「ええと……一、十、百、千、万……何だこれ?」
冷や汗が出る。剛の感覚では、「人生の節目」で手にするような大金だ。
(なるほどな、これで、菊人にひもじい思いをさせるなということか。……大切に使わせて貰わなきゃな)
剛は「年間契約」の重みを噛みしめ、震える手で通帳をカバンの奥深くに仕舞い込んだ。
マンションを出て、少し歩けば昔ながらの商店街に突き当たる。
剛は、深くフードを被せた隣に歩く菊人の細い腕を、逸れないようにしっかりと握っていた。
菊人は見るもの全てが珍しいようで、すれ違う自転車や派手なディスプレイにいちいち「わぁっ、剛ちゃん見て見て!」と小さい子供のように嬉しそうに足を止める。
「……おい、菊人。あんまりキョロキョロすんな。……迷子になっても知らねえぞ」
「ふふっ、迷子にならへんよ。剛ちゃんが、ずっと待っといてくれるもん」
無防備に笑う菊人の横を通り過ぎる時、ふうわりと香ばしい、ラード油の揚がる匂いがただよってきた。精肉屋の店先、揚げたてのコロッケが積まれていく。
「……剛ちゃん、これ、前にお家で食べたやつより、ずっとええ匂いがする」
菊人が足を止め、じっとコロッケの山を見つめた。値札には力強い手書きで『一個百円』と書かれている。
「コロッケだな。……食うか?」
「……百円。……ええの?剛ちゃん」
菊人の目には、その「百円」すら、剛に無理をさせる贅沢品に見えているようだ。剛は苦笑しながら、ポケットの小銭で二つ買い、紙袋に包まれた熱々を受け取る。
「お前な、百円ぐらいでガタガタいうな。……ほら、揚げたてだ。少しずつ食え」
剛は紙袋越しにコロッケを半分に割って、湯気の立つ中身を小さい菊人の口元へ運ぶ。
「……っ!おいしい……。剛ちゃん、これ、お外はカリカリで、中は熱々だねえ」
嬉しそうに頬張る菊人の横顔を見ながら、剛はふと、今日銀行のATMで確認した「4,500,000」という数字を思い出した。この百円のコロッケなら、四万五千個買える計算だ。
「……なあ、剛ちゃん、明日もご飯買うお金、ちゃんとあんのん?無理してへん?」
本気で心配そうに見上げてくる菊人に、剛は鼻先で笑って、その頭をぐしゃりと撫でた。
「安心しろ。お前の婆さんからお前を太らせるように言われてる。……だから、お前は、何も心配しなくていいんだ」




