第二十六話 門出と決別 2
神無月の重厚な門扉の前。迎えの車を待つ間、一人の女性が縋るように菊人の前に立ち塞がった。菊人の実の母親だ。ここに来た時に菊人のことを『綾』と呼んでいた人……。今やあの高圧な態度は、明らかに変わっている。
「……菊人……くん。その……元気でね……また、必ず会いに行くわ。だから……」
震える小さな声で告げられた「母」としての言葉。しかし、菊人はその言葉を最後まで聞くことはなかった。
菊人は、その焦点の合わない瞳でふわりと柔らかく微笑み、まるで見知らぬ通行人に道を聞かれた時のような、屈託のない声で素早く返した。
「お母はん、何しとんのん?ほうら……中でお雛さん(綾)が寂しい言うて待っとるで。早よ、行ったり。うちは構わんから、早う、戻ったげな」
その笑顔は一見、純粋な「親切心」に満ち溢れていた。……だが実は、自分という存在を母親の人生から奇麗に切り離し「綾」という虚像を抱いていろと、無邪気に突き放したのだ。
「……っ、菊人……!」
今にも泣き崩れそうになる母親を、背後に立つ志野の冷徹な声が追い打ちをかけた。
「あんさん、今、聞いたやろ。菊人は『早う去ね』って言うたんや。……こん子の慈悲を無駄にしたらあかんえ」
「……堪忍やで、堪忍してえな、菊人……!」
背後で泣き叫ぶ母親の声にも、菊人は一度も振り返らなかった。その細い指は、隣に立つ剛のジャケットの裾を、ギュッとしっかり握りしめていたのだった。
剛はもはや戦慄を覚えていた。菊人の残酷さ……どこかへ行けと母親を暗に拒絶したという事。志野の去ねと言う言葉……「消えろ」という冷酷さが神無月の恐ろしさを際立たせていた。
さて、屋敷を離れマンションへと向かう車の中。窓の外を流れる景色を見つめていた菊人が、ふと不安そうに剛を見上げた。
「剛ちゃん、お家に帰ろう……帰りたい……」
剛は、あの湿気た、かび臭い六畳間のボロアパートを思い出した。あの場所にはもう帰れない。志野の手によってほとんどが処分されるはずだ。
「……菊人、ごめんな。あのアパートにはもう帰れないんだよ」
剛は苦い顔で菊人に謝った。自分の力が及ばず、志野の軍門に降ったせいで、二人にとってのささやかな「聖域」を失わせてしまった。そう悔やむ剛の手を、菊人の温かい掌が包み込んだ。
「……ちがうよ、剛ちゃん。うちはあそこがええって言うてるんやないんよ」
菊人は、まるで大切な宝物を見つけた子供のように目を輝かせ、剛の顔を覗き込んだ。
「うちはな、剛ちゃんが行くとこならどこでもええんよ……剛ちゃんが、うちのお家なんよ」
「……」
剛は絶句した。
こいつは、両親も、家柄も、過去も、全てを神無月の門の中に置いてきた。今、こいつの世界にあるのは、「浜崎 剛」という男だけなんだという事。
「……そうか、お前がそう言うなら住み心地のいい家にしねぇとな」
「……うん、さっき綾がなあ、『お家が見つかって、良かったねえ』って……言うとった」
「……」
剛は菊人の頭を乱暴に、けれどこの上なく愛おしそうに撫でてやった。
都会の眩しい光が見えてくる頃、菊人は剛の肩に頭を預けて、安心しきった顔で小さな寝息を立て始めた。
神無月の至宝でも、絶世の美女・神無月 綾 でもない。
ただの「菊人」を乗せて、車は水の都へと滑り込んでいった。
京言葉は恐ろしい。KYの自分には理解できまへん(笑)




