第二十五話 門出と決別 1
志野は、剛にペンを促した。
「……さあ、名前を書きなはれ。それが、あんたがこん子を連れてこの屋敷を出るための『代償』や。……それにサインしたら、もう二度と『ただの友達』には戻れへんよ。これからあんたは、菊人の人生の責任をしっかりと死ぬまで背負うことになるんや」
剛は沈黙し……やがて静かにペンを走らせた。
志野に、全てを見透かされていた屈辱よりも、こうしなければ菊人をあの暗い「犬小屋」から救い出せないという現実の方が勝ったのだった。
「……書いたぜ。これでいいんだろ?」
志野は、態度を改める。彼女は座っていた厚みのある座布団をすっと後ろへ退け、固い畳の上に直接膝をついた。
「……おいっ、婆さん……?」
剛が戸惑う間もなく、志野は指先を畳につき、深く深く頭を下げた。
「……神無月の当主としてやなく、菊人の祖母として、あんたにお願いしたい」
「菊人は……うちらが『綾』として育てるために、あん子の心も身体も全部壊してしもうた。……今のあん子にはもう、頼れる身内も、帰る場所も、自分自身すら残っとらん」
志野は頭を上げたまま、剛の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、冷徹な当主の仮面の裏にある、少しばかりの後悔が滲んでいた。
「……浜崎はん、どうか、あん子を『人間』に戻してやっておくれやす。神無月の至宝ではなく、ただの、二十歳の不器用な男として……あん子を支えてやって欲しいんや」
剛は、喉の奥が熱くなるのを感じた。この婆さんは、自分のこれまでの生き方を否定してまで、目の前の「野良犬」に孫の未来を懸けたのだ。
「……よしてくれよ。俺はそんなに大した男じゃないんだから……」
剛は照れ隠しにぶっきらぼうに告げた。
「よろしゅう、お頼申します」
一礼すると志野は立ち上がり、再びいつもの冷徹な微笑を浮かべ「……さて、お気張りやす」と短く告げた。




