捌話:巧妙な伏線と異なる世界
そう意気込んだところで、別に俺から敵役に殴りかかるつもりは俺には皆無。
何度も言うようだが、俺に与えられた役はあくまで「逃げ人」である。こちらで勝手にアクション俳優にシフトすれば、せっかく監督が組み上げた筋書きを台無しにしかねないからだ。
とはいえ、前を塞がれている以上、何らかの形で突破しなければ逃げることすらできないのだが。
「葛城君、私が前を開けますので、絶対に私より前へ出ないでください」
「承知しました」
橘さんの右手にはいつの間にか二枚の紙片が挟まれていた。先ほどまで使っていたものと同じに見えるが、今度はそれぞれに描かれた線の形が微妙に違っており、小道具にも用途別の種類が存在するようだ。
橘さんが一歩踏み出すのに合わせ、階段前を塞いでいた生徒たちも、一斉にこちらへ向かって動き始めた。
「シッ――」
鋭い呼気とともに橘さんの指先から放たれた二枚の紙片が左右の壁際へ張り付き、その間を結ぶように透明な膜が瞬く間に展開される。
しかし、今度の敵役はこれまで以上にアグレッシブな演技指導でも受けているらしく、先頭の二人が見えない壁に阻まれても勢いは止まらず、その背後から別の生徒たちまで身体を押し込むようにして次々と迫ってきた。
まさにおしくらまんじゅう状態。大変危険な状態とも言える。彼らはおしくらまんじゅうがもたらす危険性を把握していないようだ。
しかし、透明な壁は人数が増えるにつれて水面のように激しく揺れ始め、橘さんの表情にも明らかな余裕がなくなっていった。
「……まずいですね」
それは演出上の台詞なのか、それとも本当に困っているのか。
疲労を滲ませる眉間の深さに迷っていると、背後から迫っていた足音もかなり近くまで来ていた。
振り返れば、廊下の向こうから水城を含めた数人が姿を現し、こちらへ向かって歩いてくる。
全力で走れば背後の水城たちから距離を取ることはできる。だが、それでは橘さんを置いて逃げることになり、「絶対に離れるな」という指示を受けた以上、それを破るのもよろしくない。
それならばと、先ほどからそこはかとなく視線を向けてシグナルを送っているが、肝心要の橘さんは役に入り込むタイプらしく、全然気づいてくれる気配がない。
となれば、今のところ俺に残されている選択肢は一つだった。
「橘さん」
「はい、今度はなんでしょう」
「大変込み入った状況の中、申し訳ないのですが、俺はあなたから離れなければいいんですよね?」
「ええ、私の後ろに――」
よし、これで言質は取った。何か続きを言おうとしていたが、とどのつまり、橘さんから離れないという条件さえ守れば、脇役である俺にもある程度の裁量が与えられたと解釈して差し支えないだろう。
仮に後から問題になったとしても、少なくとも独断ではなかったと言い張るだけの材料は揃ったのだ。最悪の場合は、橘さんにも多少の責任を負っていただこくことで痛み分けということで。
俺は橘さんより前には出ず、肩を並べる位置まで進んだ。
「……何をするつもりですか」
その瞬間、人数に押された透明な膜が大きくたわみ、その一部を突き破るように男子生徒の腕がこちら側へ伸びてきた。
俺は迷わずその手首を掴む。
「待ってください、本気で何をするつもりですか」
橘さんの制止が飛んできたが、約束を破っていない以上、こちらはすでに発進済みである。今さら急停車する理由もなければ、止められる筋合いもない。
俺は相手が腕を引こうとする力に逆らわず、その方向へとこちらから少しだけ押し込んむことで重心を浮かせた。
そしてその瞬間に手首の向きを変えれば、男子生徒の身体は自ら踏み込んだ勢いを持て余すように横へ流れ、後ろにいた二人を巻き込みながら廊下の端へよろめく。
うむ、たわいもなし。これで正面に人一人が通れるだけの隙間ができた。
「橘さん、今なら通れます」
俺が勝利のサムズアップをすると、橘さんは一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに結界を解いて階段へ駆け出す。
「……葛城君。君は本当に中学生ですか」
俺もその背中を追いながら答える。
「学生証をお見せした方がよろしいでしょうか?」
「いえ、そういう意味ではありません」
では、どういう問題なのか、そんなたわいもない質問もさせてくれず、橘さんは俺への追及を後回しにしたまま足を緩めずに東階段へと飛び込む。
俺もその背中を追って東階段へ飛び込んだ。
そうして一階へ向かって二段ほど下りたところで、下から複数人が駆け上がってくる足音が響いた。
新手か。
そう思って身構えかけた俺とは対照的に、先頭の橘さんの肩からわずかに強ばりが取れた。
「橘!」
階段の折り返しから姿を現したのは、髪を短く切り、動きやすそうな黒い上着を身につけた男だった。
年齢は橘さんと同じくらいだろうか。少々ダンディーな見た目で、彼のその後ろにも男女二人が続いており、三人とも学校関係者には到底見えない格好をしている。
腰元には袋や紙束など、用途の分からない道具をいくつも提げ、先頭の男だけは左腰に一振りの刀まで携えていた。
「御堂、遅いですよ」
「無茶言うな。正門前で三体に足止めされたんだよ」
どうやら、この新しい男は御堂というらしい。新規御一行様のリーダーというところか。
そんなことを考えていると、男ーーもとい、御堂さんもようやく俺の存在に気づいたらしく、一瞬だけ訝しげに眉を寄せたものの、すぐに橘さんに視線を戻した。
「その坊主が例の?」
「ええ、《置換体》に囲まれていたところを保護しました」
「よく無事だったな。怪我は?」
「ありません。それどころか――」
橘さんが何かを言いかけたものの、背後の階段から複数の足音が響いたことで途中で口を閉じる。
御堂さんも即座に表情を切り替えると、左腰の鞘へ手を掛け、一息に日本刀を抜き放つ。
露わになった刃の上を淡い光が一筋だけ走り、そのまま切っ先へ吸い寄せられるように集まっていく。
「お前たちは上を押さえろ。橘、お前はその坊主を連れて一階へ降りろ。正門側はまだ完全には潰れてないはずだ」
「分かりました」
「それとこれは観測班から連絡だ。さっきから校内の観測値が上がり続けている」
「上昇が始まった時刻は?」
「《置換体》が一斉に動き始めたのと、ほぼ同時だ」
橘さんの目がわずかに細められた。
「時刻はほぼ一致しています。偶然とは考えにくい。怪異が次の段階へ移り、その影響が《置換体》と観測値の双方へ現れたと見るべきです」
「《黒傘》は?」
「出現位置と観測値の変化を重ねてください。媒介であるなら、局所的な上昇が先に出ている可能性があります」
「今、観測班に洗わせてるが、対象が多すぎる」
――黒傘。
奇しくも、その単語には聞き覚えだけでなく見覚えもあった。
朝、通学路で見かけた黒い傘。
休み時間、廊下に開いたまま置かれていた黒傘。
そして、五限目が始まる直前、水城の机の脇に立てかけられていた一本。
……なるほど、これがいわゆる伏線というやつか。
朝から何度も見せておき、物語が動き始めたところで意味を持たせるーー映画というのは、小道具一つ取っても随分と計算されている。
「葛城君」
《黒傘》という小道具の周到さに感心していた俺を、橘さんの声が思考から引き戻す。
「私たちは今から下に行きます。彼らがここを押さえますから、ついてきてください」
「分かりました」
言うが早いか、橘さんは階段を下り始める。俺も背広を追いかけて階段を下り始めたところで、背後から御堂さんたちが上階から迫ってきた生徒たちとぶつかり、乾いた足音に紙の弾ける音、何か硬いもの同士がぶつかる音が立て続けに響き始めた。
思わず振り返りたくなるほど迫力のある音響だったが、俺の役は戦闘を観戦する人ではなく、あくまでも「逃げ役」。後ろ髪を引かれる思いはありつつも、ここはプロの指示に従うべき。
そう自分へ言い聞かせ、階段を一階まで下り切ったところで、橘さんが突然足を止めた。
「これは……」
その声につられて前を見ると、階段を下りた先には、先ほどまでと変わらない白い壁と窓、規則正しく並んだ教室の扉が続いている。
見た目だけなら、ごく普通の校舎のように見えるのだが、橘さんの険しい顔がその危うさを物語る。
「……廊下の位置が合いません」
俺には何がおかしいのかさっぱり分からなかったが、そういう筋書きなのだということは完全に理解しているので、ひとまず黙って彼の視線を追い、全力で乗っかることにする。




