玖話:晴れ間の果て
「……廊下の位置が合いません」
橘さんが見ていたのは廊下ではなく、その向こうに並ぶ窓だった。
「葛城君、一点認識を合わせます。私たちは確かに一階まで下りましたよね?」
「その認識で間違いないかと」
「では、なぜ外との高低差が変わっていないのでしょうか」
言われて窓の外へ目を向ける。
そこで俺は、ようやく橘さんの言葉の意味を理解した。
摩訶不思議なことに、眼下には見慣れた中庭が広がっているものの、植え込みも渡り廊下の屋根も明らかに低い位置にあり、窓から地面までの高さはどう見ても一階のものではなかった。
俺たちは先ほど東階段を使って、確かに一階まで下りたはずなのだから、単純に考えれば地面の方が一階分だけ沈んだことになる。
随分と壮大なセットに驚嘆を禁じ得ないでいると、橘さんはどうやら俺とは正反対の感想を抱いたらしく、険しい表情のまま胸元の通信機へ手を伸ばした。
「御堂、聞こえますか。東階段を一階まで下りましたが、外との高低差が変わっていません。校内の階層と外部の位置関係がずれています」
『くそっ、こっちもだ。階段を一階分上がったはずなのに、教室番号が変わってねえ』
返ってきた声に、橘さんの表情がさらに険しくなる。
続いて別の人間の声が通信へ割り込んだ。
『観測値も急上昇しています。校舎全域で《境》の重なりが拡大中。《黒傘》の確認地点周辺では、特に大きな変動が出ています』
「……やはり《黒傘》が空間の接続点になっていますね」
『ただし条件はまだ不明です。閉じる、開く、移動させるといった物理的な干渉は避け、現状維持を優先します』
「了解しました。御堂、こちらは正門ルートを断念し、西階段へと回ります」
『分かった。一般生徒を最優先にしてくれ』
通信を切った橘さんは俺の方を振り返ると、確認するように一度だけこちらの顔を見た。
「葛城君、予定を変更します。ここから西階段へ向かいます」
「承知しました」
俺は再び橘さんの後ろについて廊下を進み始めたが、どうやら先ほど窓の外だけで起きていた異変はすでに校舎内部へも及び始めているらしく、角を一つ曲がった先に並んでいたのは、一年生の教室ではなく、つい先ほどまで俺たちがいたはずの二年生の教室だった。
この摩訶不思議な光景には、演技を忘れてさすがに俺も足を緩めざるを得なかった。
「……随分と凝っていますね」
「何がですか」
「セットです」
「……そうですね。私も同意します。本当に頭が痛くなるほどです。しかし、今は私についてきてください」
そのまま二つ目の角へ差しかかったところで、前方の教室から制服姿の生徒が次々と姿を現した。
背後からも複数の足音が重なって聞こえ始め、橘さんはわずかに眉を寄せると、俺を庇うように身体を滑り込ませながら二枚の紙片を取り出す。
「葛城君、廊下をまっすぐ進んで次を左へ。曲がった先で待っていてください」
「橘さんは?」
「すぐに追いつきます」
「承知しました」
非常に明確な指示に、こちらとしても余計な判断を挟む必要もない。
橘さんの指先から放たれた二枚の紙片が前方から迫っていた二人の生徒の胸元へ張り付いた。
直後、淡い光が弾け、二人の身体が左右へ押し戻される。
俺はその間に開いた隙間を抜けると、言われた通り廊下を走り、次の角を左へ曲がった。
そこで足を止め、橘さんを待つ。
そうしてたっぷり三十秒ほど待ったところで、終ぞ橘さんが追いついてくることはなかった。
「……?」
さすがに遅いと思い、今しがた曲がってきた角から顔だけを覗かせたところで、俺は思わず眉を寄せる。
奇々怪界とはまさにこのこと。
あろうことか、そこにあるはずの廊下がなくなっていたのだ。
代わりに正面へ続いているのは何の変哲もない白い壁であり、つい三十秒ほど前まで橘さんと生徒たちがいた光景など、最初から存在しなかったかのように綺麗さっぱり消えている。
「……なるほど」
今日の俺は冴えている。
つまり、これが世に聞く別撮りというものなのだろう。
いつの間に壁を動かしたのかは知らないが、ここまで来ると映画業界の技術力には感心を通り越して若干の恐ろしさすら覚えてならない。
手の込みようが並のそれではない。本気と書いてマジとモンハン読ませてくるレベル。もはや狂気に近い。
もっとも、橘さんからは曲がった先で待てと言われている。
ならば、ここで勝手に動き回るのもよろしくない。
そう考えて周囲を見回したところで、廊下の中央にぽつんと置かれた黒い傘が目に入った。
「……」
傘は完全に開いた状態で床へ横たわっており、廊下を通ろうとすれば嫌でも避けなければならない位置を堂々と占拠している。
先ほどの通信を聞く限り、今回の作品における重要な小道具であることは間違いなさそうだが、それにしたって置き場所というものがあるだろう。
撮影中とはいえ、ここは現役の中学校である。
先ほどの通信で、《黒傘》には触れないよう言っていた気がするし、そのままにしておくべきなのだろうが、目の前の傘を廊下の中央へ放置する方が、なぜかひどく不自然に思えた。
このまま誰かが走ってくれば、足を引っ掛けて転倒する可能性がある。
周囲には指示を仰げるスタッフもいない。
ならば、ここは安全を優先するべきだろう。
俺はしばし傘を見下ろしたあと、仕方なく腰を屈め、柄を掴んで持ち上げると、開いていた傘を閉じた。
そして、広がっていた黒い布を軽く整えてから留め具まできちんと留め、誰かの邪魔にならないよう壁際へ立て掛けておく。
「うむ」
我ながら良い仕事をした。
そう思って手を離した、その瞬間だった。
足元を低い振動が走り、校舎全体がわずかに軋んだ。
次いで、校舎から音が消えた。
無論、消えたのは比喩表現でもなく、遠くから聞こえていた騒ぎも生徒たちの足音も、御堂さんたちが戦っているらしい物音も、まるで電源でも落とされたように一斉に途絶え、あとに残ったのは耳が痛くなるほどの静寂だけだった。
「……?」
何事かと顔を上げると、窓から差し込んでいた初夏の明るい日差しがいつの間にか失われ、その代わりと言わんばかりに、つい先ほどまで雲一つなかったはずの空は、校舎を覆い潰すような灰黒色へ変わっており、その遥か上空では重たい雲が渦を巻いている。
やがて窓ガラスへ、一滴の黒い雫が落ちた。
続いて二滴、三滴。
瞬く間に数え切れないほどの雫がガラスを叩き始め、晴天だったはずの天ヶ原中学校へ、あり得ない色をした雨が降り注ぐ。
俺はしばらくその光景を眺めたあと、壁際へ綺麗に片付けた黒傘へ一度だけ視線を落とした。
「……」
どうやら、撮影はまだまだ続くらしい。
まったく、いつになったらカットの声がかかるのだろうか。
◇⚡︎◆
校舎を揺らすほどの低い振動が足元を走ったのは、御堂が階段を上がってきた生徒の腕を刀の峰で受け流し、踊り場の壁際へ押し返した直後だった。
「――っ」
反射的に手すりに手を掛けた御堂の視界で、つい先ほどまで窓の向こうに広がっていた青空が急速に色を失っていく。
雨雲が流れてきた、などという生易しい変化ではなかった。
校舎の外側を巨大な何かで覆い隠すように灰黒色が広がり、遠くに見えていた住宅街も、道路も、福岡の街並みさえも輪郭から溶けるように消えていく。
やがて、窓ガラスへ黒い雫が一滴落ちた。
「……おい」
続けて二滴、三滴と落ちた雫は、瞬く間に激しい雨へ変わった。
「御堂さん、これ……」
御堂のすぐ後ろで、生徒たちを押さえていた班員の一人が息を呑む。
「ああ」
答えながら御堂は腰を落とし、指先で床に触れた。
校舎全体を満たしていた異質な感覚がそれまでとはまるで異なり、現実の中へ別の空間が滲み出している段階ではなく、今は自分たちの立つ学校そのものが、通常の現実法則を維持できない《異境》へ変わっていた。
御堂は立ち上がると同時に通信機に手を伸ばした。
「観測班、聞こえるか。現在値を寄越せ」
返答はすぐには来なかった。
その代わりに通信機の向こうで耳障りな雑音が何度か弾け、声らしきものが途切れては消える。
やがてノイズが僅かに弱まったところで、ようやく向こうの声が形を持って届いた。
『……こちら観測班。境界反応、臨界値を突破し、天ヶ原中学校全域で現実側との接続値が急落しています』
「全域だと?」
『はい。外部観測上、校舎そのものの位置情報にも齟齬が発生。現在、通常経路からの進入は――』
そこで一度音声が途切れ、通信機から濁った雑音だけが流れる。
御堂が舌打ちしかけたところで、階下から駆け上がってくる足音が響く。
「よせ」
すぐさま班員が戦闘態勢に整えるのを御堂は手で制した。
「御堂」
階段下から姿を見せた橘は、窓の外を一瞥しただけで状況を理解したらしい。
普段から疲れの残る顔が、今はそれとはまったく別の理由で険しく強張っている。
「橘、坊主はどうした?」
「……不覚にも見失いました。《置換体》に挟まれたため、先に曲がり角まで行かせ、こちらとしてもすぐに追いつくつもりでしたが、その直後に廊下の接続が変わりました」
「……ちっ、最悪のタイミングだな」
御堂が吐き出すように言った直後、通信機に再び声が戻った。
『御堂さん、聞こえますか』
「聞こえてる。状況判定は?」
短い沈黙――それだけで、返ってくる答えが軽いものではないと御堂は分かった。
『現時点の被害規模、および異境化範囲から判断して――第三禍相への引き上げを具申します』
御堂の表情からそれまで僅かに残っていた余裕が消えた。
「……第三か」
怪異案件に設定される《禍相》は、単純な強さを示す等級ではない。
仮に退魔師一人で討てる怪異であっても、短期間で大勢の人間を巻き込み、社会機能そのものへ影響を及ぼす性質を持つのであれば、その危険度は高く見積もられる。
反対に、どれほど強力でも一定の場所から動かず、被害条件が明確であれば対応規模は限定できる。
その怪異を放置したとき、どこまで人の生活を壊し得るのか。
境務所が対応規模を決定するために設けている五段階の災害指標――それが《禍相》だった。
そして《第三禍相》は、もはや数人の退魔師だけで処理を完結させていい案件ではない。
「学校一つを丸ごと呑み込んでいます。妥当でしょう」
橘が窓の向こうを見据えたまま低く答える。
そこに映っているのは、数分前まで存在していた福岡の街ではない。黒い雨に煙る灰色の景色がどこまでも続き、本来なら校庭の先にあるはずの住宅も道路も消えていた。
「第三で止まればいいがな」
御堂の言葉に、橘が視線だけを向ける。
「この《異境化》》が学校の外まで拡大すれば、第四禍相も視野に入ります」
「ったく、そう縁起でもないこと言うもんじゃないぜ」
「私も言いたくて言っているわけではありません」
橘の返答に、御堂はそれ以上何も言わず、再び通信へ意識を戻す。
「《黒傘》はどうなっている?」
『現在確認中です。ただ、異境化の直前、校内に存在していた《黒傘》のうち一本で、反応値に急激な変化がありました』
その報告を聞いた瞬間、橘の表情からわずかに余裕が消え、通信へ向ける集中が一段深くなった。
「その《黒傘》はどこにありましたか」
『特定にはまだ……しかし、空間座標そのものがずれています。これまで確認されていた他の《黒傘》とは反応の質が違います』
「それで何が変わった?」
『直前まで開いた状態を示していた反応が急激に縮小しました。その直後、校内全域の境界値が反転しています』
橘は視線を落とし、二つの変化を頭の中で重ねるように短く沈黙した。
「開いていた《黒傘》が閉じられ、それを契機に境界値が反転した可能性があります。反応の質まで違うなら、その一本が全体を束ねる基点かもしれません」
『物理状態が変化した可能性は高いと見ています。こちらからも繰り返します。校内の《黒傘》には絶対に触れないでください。開閉、移動、破壊、すべて禁止です』
「今さら言われなくても分かってる」
御堂はそう返したが、橘は何も言わずに視線を落とした。
調査開始当初、《黒傘》は人間を《異境》へ引きずり込むための媒介にすぎないと考えられていた。
しかし、被害者の数が判明し、校内で発生した空間異常と出現地点を重ねるにつれ、その認識は変わり始めている。
一つひとつの《黒傘》が、怪異側の《境》と現実の学校をつなぎ止める節点として機能している可能性が高い。
そして橘は今の報告から、その中に全体を束ねる一本が存在する可能性まで見いだしていた。
「どうした?」
「……いえ」
何かを思い出すように、わずかに眉間へ皺を寄せる橘へと御堂が水を向けると、短く答えた橘は顔を上げ、今度は迷うことなく廊下の奥へ目を向ける。
「私は葛城君の捜索を優先します。この非常事態において、彼は何も知らない」
「分かってる。原因探しより生存者の確保が先だ」
御堂が応じた直後、階段の下から何かが倒れる大きな音が響き、その後を追うように複数の足音が近づいてきた。
完全に現実から切り離された《異境》の中で、《置換体》たちはまだ動いている。
学校一つを呑み込み、《第三禍相》へと引き上げられた怪異がこの程度で終わるはずもなかった。
御堂は手にした日本刀を握り直すと、黒い雨に濡れる窓を一度だけ見やり、そのまま階段の下へ身体を向けた。




