拾話: 主様
御堂たちの前に、階下から姿を現した《置換体》は五体。いずれも天ヶ原中学校の制服を身につけており、その中には、御堂が事前資料で顔を確認した覚えのある生徒も混じっていた。
だが、今となっては外見に意味などない。本物はすでに怪異の側へ取り込まれ、目の前にいるのはその代わりとして学校生活へ紛れ込んでいた偽物なのだとーーそう割り切り、御堂は先頭の一体が階段を上り切るより早く間合いへ踏み込んだ。
「ーーッ」
突き出された腕を刀の峰で外へ流しながら懐へ入り、空いた手で胸元へ符を押し当てる。
淡い光が弾けると同時に《置換体》の身体が大きく仰け反ったが、その結果を確認している暇はない。
御堂は続けざまに迫った二体目の足を払って階段脇へ転がし、その背後から伸びてきた腕を、返した刀の峰で受け流す。
「橘、先に行け!」
「一人で持たせるわけにはーー」
「舐めんな、こいつら程度なら何ともねえよ!! それより、葛城を見失ったのはお前だ。さっさと拾ってこい」
「……分かりました」
口論にもならない問答のあと、橘が走り出そうとしたそのとき、御堂たちへ向かっていた《置換体》の一体が不自然なほど唐突に足を止めた。
続いて二体、三体とまるで見えない糸に足首を絡め取られたかのように動きが鈍り、それでも無理やり前へた進もうとした一体が体勢を崩して隣の《置換体》へぶつかる。
何が起きたのかと御堂と橘が視線を落とせば、階段の床を這うように細い光の筋が走り、複数の足元を縫うようにして結ばれていた。
「……おいでなすったか」
御堂が僅かに構えを解いた直後、《置換体》たちの向こうから規則正しい足音が近づいてくる。
やがて姿を現したのは、一人の少女。腰まで届く艶やかな黒髪を背中へ流し、制服の袖口から覗く指先には一枚の細い符が挟まれている。
「御堂さん、橘さん」
少女――九重紫苑は、足元で身動きを封じられている《置換体》に一瞥をくれたあと、二人へ静かに会釈した。
「ご無事で何よりです」
「ああ、そっちもな」
御堂がそう短く答えると、紫苑の視線が僅かに動く。それは周囲を見回したわけでもなければ、窓の外に広がる異境へ驚いたわけでもない。そこにいるべき人物が見当たらないことを確かめるようなごく短い視線だった。
「彼――葛城朔夜さんは、今どちらにいらっしゃいますか?」
紫苑の口からその名が出た瞬間、橘の眉がわずかに動いたその機微を、紫紺の瞳は見逃さなかった。
紫苑の瞳が橘へと固定される。その瞳は何かを問い質すことはしない。
ただ、ほんの少し顎を引いて先を促す仕草は控えめでありながら、今の反応に心当たりがあるのなら聞かせてほしいという意図だけは、言葉にするまでもなく十分に伝わるものだった。
橘は怪訝そうに眉を寄せ、確認するように紫苑へ視線を向けた。
「……葛城君とは、お知り合いですか」
「はい」
「差し支えなければ、ご関係を伺っても?」
「知り合いかどうかはさておき、私は彼の所在をお聞きしております」
声音こそ終始穏やかだったが、紫苑の言葉には、橘をそれ以上踏み込ませない静かな圧があった。
「道理ですね」
橘は余計な質問を飲み込み、つい先ほどまで朔夜と行動を共にしていたこと、その途中で《置換体》に挟まれたため先行させ、直後に空間の接続が変化して合流できなくなったことを簡潔に説明する。
「最後に確認したのは東棟一階です。ただし、現在は階数も方角も信用できません。《置換体》に挟まれたため先行させましたが、その直後に廊下の接続が変わり、合流できなくなり、現時点では所在を特定できていません」
「そうですか」
紫苑の短い応答が、廊下の静けさへ溶けるように消えていく。黒い雨が降ろうと、学校全体が《第三禍相》の異境へ呑まれようと、その佇まいには目立った変化がないように橘には見えた。
そのあまりに冷静な態度から知り合いではなかったのかと思い直す橘の脇で、彼女を以前から知る御堂には、その静けさが平静とは少し違うものだと分かった。
「……九重、くれぐれも勝手に突っ走ってくれるなよ」
こめかみに冷たい汗が滲むのを感じながら、先回りするように御堂が釘を刺すと、紫苑はわずかに目を瞬かせた。
「お気遣いありがとうございます。ですが、そのようなつもりは毛頭ございませんのでご安心ください。現在の校舎を闇雲に動き回れば、かえって発見を遅らせることになるでしょうから」
声音に焦りの色ひとつ見つけられず、御堂は一瞬でも気を回した自分の方が余計だったかと肩の力を抜くように小さく鼻を鳴らしたその直後、
「ですが――」
間髪を容れず続いた一言に、御堂の気が再び引き締まった。
「彼を最後に確認した場所まで、私をご案内いただけませんか?」
「……」
御堂はすぐには答えず、一回り以上も年下の少女が何を考えているのか、その真意を探るように顔を見た。
現職の退魔師である御堂は眼前の少女の特殊な立場についても知っている。事態がここまで拡大した以上、使える戦力は一人でも多いに越したことはない。
幸い、この学校には九重家の術者である紫苑が在籍していた。その力を借りるべく協力を要請したのは、ほかでもない御堂たちの側である。
だから、紫苑が行方の分からなくなった生徒を探そうとすること自体には何ひとつ不自然なところはなかった。
ただ、長く怪異を相手にしてきた経験が御堂の中で小さく引っかかっていた。
そのとっかかりになっているのは、学校全体が異境へと呑み込まれ、大勢の生徒が取り残されている状況で、紫苑が真っ先に葛城朔夜ただ一人の所在を確かめたことだった。
橘がその名前に反応した瞬間から、彼女の意識はただ一人の所在へ向けられている。それは単なる救助対象の一人を探しているだけではないように思えた。
しかし、学校全体が《異境》へ呑み込まれ、取り残された生徒の数すら正確に把握できていない危機的状況の最中、紫苑が何を考え、葛城という少年とどのような関係にあるのかを議論している余裕はない。
「分かった。彼も救助対象であることに変わりはない。最後に確認した場所まで案内しよう」
「お願いいたします」
話がまとまったところで、御堂は階下へ視線を向けると、先ほどから足元を縛られていた《置換体》たちが光の拘束を引き千切ろうとするように身体を揺らし始めている。
長居をすれば再び囲まれるうえ、《第三禍相》へ引き上げられた以上、今後どのような変化が起きるかも予測できない。
余計な詮索から思考を切り替え、必要な手順と人員配置を素早く組み立てる。
「俺たちはここを離れる。必ず固まって行動しろ。黒傘は見つけても絶対に触るな。葛城を確保したら、次に基点の反応を追う」
「了解」
「承知いたしました」
◇⚡︎◆
さて、困ったことになった。
橘さんからは曲がった先で待つように言われていたので、俺としても可能な限りその指示を遵守するつもりではいたのだが……。
肝心の待機場所と橘さんのいる場所を繋いでいた廊下そのものが消えてしまった以上、同じ場所で立ち尽くしていることにどれほど意味があるのか甚だ疑問である。
指示というものは、前提となる状況が維持されていてこそ有効であり、ましてや窓の外で黒い雨が降り始めたばかりか、つい先ほどまで見慣れた校舎だったはずの場所まで少々どころではない変貌を遂げつつある。
映画の展開としてはかなりホットでクールな展開であることは疑う余地もないのだろうが、いかんせんこちらの手には物語の進行を把握するための台本もなければ、それらしいスタッフの姿も周囲には確認できない。
これほど本格的な撮影現場が初である俺には、この状況が正常なのか判断がつかないのが痛いところではあるが、それでもいささか役者の機転に任せる割合が高すぎるのではないだろうかと思う今日この頃。
しかし、いつまでも無機質なコンクリート壁を眺めていては、映画の進行まで止まってしまいかねない。
俺は壁際へ片付けた黒傘から離れ、ひとまず橘さんと合流できそうな場所を探して廊下を歩き始めた。
それからしばらく廊下を歩き回り、最初に違和感を覚えたのは二つ目の角を曲がったとき、見覚えのある廊下に出た。
それ自体は特段おかしなことではない。この学校へ通い始めて一年以上経つのだから似たような廊下などいくらでも見覚えがある。
……問題は、窓際に置かれた消火器の位置もその隣に貼られた進路標語のポスターも、さらには右端だけ僅かに捲れた掲示物まで、つい先ほど通った場所と寸分違わず同じだったことにある。
「……ふむ」
逃げ役である俺に求められている役割は明確であるため、念のためそのまま進んで次の角を曲がる。
すると、いや、案の定というべきか、眼前に広がった景色は寸分違わず直前に目にした光景だった。
二度あることは三度あるという諺が脳裏をよぎる中、物は試しだとさらにもう一度トライしても、当然のように結果は変わらなかった。
当たり前の如く広がる同じ廊下の景色を前に立ち尽くす俺の脳内には、三度あることは四度目もあるのかという新たな疑念と、その先へプルスウルトラする考えも浮かんだ。
しかし、それを見せられる観客の視線と気分を考えると、ここらで少し頭を働かせ、機転を利かせるナイスガイなところも見せておくべきだと踏みとどまる。
では、俺が何に困っているのかと考えると、それなりの距離を歩いているはずなのに、なぜか毎回同じ場所へ戻されるという、なんとも不可解な現象に見舞われていることだ。
「……これがいわゆるループ構造というやつか」
俺の聞き齧った知識によれば、映画作品におけるループ構造とは、物語の中で同じ時間、出来事、場所、展開が反復される構造のことだったと思う。
映像作品であれば編集によって比較的簡単に表現できそうな演出で、ディスプレイの外側から見ている分には「なぜそこまで右に曲がるんだ、アホかこいつは」と鼻で笑い飛ばしていたが、リアルに体験させられると初めてその厄介さと悪質さに気付かされる。
そしてそれを実際の学舎で体験させるとは誰が想像できようか。
とはいえ、いつまでも同じ道を回り続けるのは愚の骨頂であり非効率極まりない。
リアリティの追求者たる監督とて、いつまでも同じことを繰り返す俺を見せられれば痺れを切らして「ちょっと待てお兄さん」してくるのは必至。さすがの俺も、見ず知らずの監督とのラッスンゴレライは避けたいところ。
四度目の挑戦を早々に諦めるという英断を下し、俺は途中にあった階段へ進路を変えた。
さて、再び歩き始めたところまでは良かったが、問題は上へ行くか、下へ行くか。
現在地すら怪しい以上、どちらを選んでも大差はないだろうが、橘さんたちはもともと一階へ向かおうとしていたのだから、方針だけでも合わせるなら下が妥当だろう。
そう判断して階段を下り始めたところで、校舎のどこか遠くから何か硬いもの同士が打ち合わされるような音と誰かの声まで聞こえてくる。
さすがに距離があるせいか内容までは聞き取れないものの、少なくとも俺以外の人間がそう遠くない場所にいることだけは分かった。
「ふむ、あっちか」
橘さんとの合流経路が消失し、連絡手段も持っていない以上、こちらからスタッフを探しに行くのは十分に合理的な判断に違いない。
「逃げ役」である俺の役割上、一人で校舎を彷徨い続けるよりも、事情を知っている人間と合流した方が役目を完遂できる可能性も高い。
俺は聞こえてきた音の方向を確かめると、今度こそ同じ場所へ戻されないことを監督に願いながら階段を下りていった。
◇⚡︎◆
階段を下りるにつれ、先ほどまで遠くに聞こえていた音は少しずつ輪郭を増していった。
何かが床へ叩きつけられる鈍い音に短く飛び交う怒声。その合間には紙を勢いよく弾いたような乾いた音まで混じっており、少なくとも俺の知る通常の学校生活ではまず耳にすることのない賑やかさである。
音を頼りに階段を下り、折り返しの踊り場へ差しかかったところで、ようやく騒ぎの出所が見え、階下の広い廊下では、御堂さんたちが十人近い生徒を相手に、飛んだり跳ねたりのどんちゃん騒ぎを繰り広げていた。
正確には戦っていると表現するべきなのだろう。
御堂さんは刀の峰で進路を逸らし、橘さんは紙片で動きを封じる。死角から懐へ入られても、必要最小限の体捌きで相手をいなし、すぐに距離を取り直していた。
さらに少し離れた場所では見覚えのない女子生徒が一人、長い黒髪を翻しながら生徒たちの間を縫うように動いていた。
逃げ役の俺がいきなり切った張ったの場面へ乱入するのはナンセンスということで、御堂さんが複数の生徒に囲まれようが、橘さんの展開した見えない壁が激しく揺さぶられようが助太刀無用。
長い黒髪の女子生徒に関しては、ひらひらと舞うような動きで生徒たちをいなしながら牽制し、不思議なエフェクトを交えて上手に戦闘シーンをこなしているので本当に手助けは必要ないだろう。
それにしても、また随分と動ける人が登場したものだ。
階段の踊り場から三者三様の戦いを見下ろしながら彼女のキャスティングを考えると、きっとこの作品の顔の一人ではなかろうか。
腰まで届く烏の濡れ羽色の黒髪に、過不足なく整った目鼻立ち。その中でも目を引く紫紺の瞳は、これだけ激しく動き回ったあとだというのに落ち着きを失わず、眼前の状況を注意深く追っている。
それ以上に印象へ残るのはその立ち姿だった。
背筋は無理に力を入れている様子もなく伸び、一つひとつの所作にも妙な雑さがない。
今どき大和撫子などという言葉を実生活で使う機会があるとは思わなかったが、もしその言葉を人の形にして制服を着せれば、案外こういう姿になるのかもしれない。
これだけ容姿が整い、際立ったアクションまでこなしている以上、名前の付いた役者であることは間違いない。
なんとなく、どこかで見たことがあるような気はするのだが、もっとも記憶の隅のそのまた隅を掘り返したところで出てくるのがその程度なのだから、同じ中学校の制服を着ているとはいえ、少なくとも面識がある相手ではないだろう。
それが校内ですれ違った記憶なのか、それともクラスの誰かが話していた噂をぼんやり覚えているだけなのか、自分でも判然としない。
確か、三年生に随分と綺麗な先輩がいるだとか、そんな話を誰かがしていたような気もするが、あるいは彼女がそうなのかもしれない。
そんなことを考えている間にも三人のアクションシーンは続いていた。
御堂さんも橘さんも、生徒相手に獅子奮迅の活躍で、落ちた餌を目掛けて蟻が集まるがごとく襲いかかってくる生徒たちを、御堂さんは手にした得物で、橘さんは紙片で牽制し、死角から懐へ入り込まれれば、情け容赦のない見事な体術で下していく。
若者代表である黒髪の女子生徒は、振るわれた腕を最小限の動きだけでいなしながら、指先に挟んでいた細い符を翻すと、その直後に二人の生徒の足元を淡い光が走り、互いに進路を塞ぎ合うような形でその動きが止まる。
素人目にも三人が相当な訓練を受けていることは明らかだった。そして、その一連の動作に一息の間が生まれたとき、その裏に見える汗と涙の結晶が容易に想像できた俺は、逃げ役という立場を忘れ、気づけば、コングラチュレーションとばかりに称賛の拍手を送っていた。
アクションシーンで神経が研ぎ澄まされた三人なら、突如頭上から響く拍手の音に気づくのは必至。不覚にも、気づいたときには三人がほぼ同時に俺へ視線を向けていた。
しかし、その中において、長い黒髪の少女だけは俺の姿を認めた瞬間、それまで少しの乱れもなかった表情をほんのわずかに和らげた。
次の瞬間、彼女が動く。
迫り来る生徒たちの狭間へするりと身を滑り込ませ、伸びてくる腕に触れられることすらなく、蝶が舞うように次々とすり抜けていく。
気づけば彼女は、俺のいる踊り場へ続く階段の下までたどり着いていた。
そして、一度だけ確かめるように俺を見上げ、まるでそうすることが初めから定められていたかのように、その場へ片膝をつき、静かに頭を垂れた。
「主様」




