漆話: 艱難汝を玉にす
映画であることは理解した。ゲスト参加であることも、まあ、飲み込んだ。ともすれば次に必要なのは、俺に何の役割が割り振られているのかという一点である。
台本も渡されていない以上、そこだけは聞いておかなければ動きようがない。
こちらがようやく話を理解したことで安心したのか、それとも理解させること自体を諦めたのか、ぽっと出のおじさんは一瞬だけ何とも形容し難い顔を浮かべたものの、再び教室の出口へ視線を向けた。
「……君は、外へ逃げる役です。私についてきてください。絶対に離れないように」
「逃げる役、ですか」
「そうです。襲ってくる者には近づかないでください。自分から相手をする必要もありません。私が道を作りますから、離れぬよう後ろからついてきてください」
ゲスト参加という割には随分と地味な役回りだが、初出演の人間にいきなり主役級の活躍を求めるほど映画業界は甘くないという裏返しかもしれない。
考えようにようによってはむしろ、台本すら渡されていない状況で求められる仕事が「外へ逃げる」エキストラのような役だけなら、初心者向けとしては良心的な部類かもしれない。
「承知しました。俺は逃げればいいんですね」
「ええ、その通りです」
ならばこれ以上の質問や余計な詮索はあくまで「逃げ役」である俺には求められていないのだと理解した。
いやはや、数百人いる生徒の中から「逃げ役」として状況への理解度が高い俺を選び出した監督の慧眼には感服するほかない。映画初出演の身としては、大船に乗ったつもりで与えられた役回りに徹していればいいのだから、まさに僥倖といえよう。
俺がそんな安心感を抱いていると、ぽっと出のおじさんが教室の出口に向かって動き出した。
俺も任された役を全うすべくその背中を追った。
もっとも、出口までの数メートルすら素直に通してくれるほど撮影は親切に設計されていないらしく、水城たちもこちらの動きに合わせるように進路を変え、ゆっくりと距離を詰めてくる。
「下がってください」
ぽっと出のおじさんは俺を手で制しながら前へ出る。先ほどと同じ紙片を二枚取り出して床へ滑らせるように放つと、不思議な紙片は途中で落ちることなく左右へ広がり、淡い光を帯びたまま床すれすれで静止した。
直後、その間を結ぶように透明な膜が一瞬だけ揺らめき、先ほど黒傘へと手を伸ばしていた男子生徒がそこへ触れた途端、見えない壁に遮られたように足を止める。
ふむ、やはりよくできている。
ワイヤーらしきものは見えないし、床にも大掛かりな装置を仕込んだ形跡はない。
光についてはプロジェクションか何かで説明できそうだが、生徒の身体まで自然に止めているとなれば、俺が知らない新技術でも使っているのだろう。
俺の知らないうちに、映画業界はとんでもない進歩を遂げていたらしい。
まさに、目から鱗が落ちる思いである。
「今です、走ってください」
ぽっと出のおじさんが水城たちを押しとどめている隙に、俺は教室を飛び出した。すると、それまで扉一枚に遮られていた校内の騒ぎが一気に耳に流れ込んでくる。
廊下には倒れた清掃用具や鞄が散らばり、少し離れた場所では教師が数人の生徒を教室の中へと避難させようとしていた。
そのさらに奥を何かから逃げるように男子生徒が駆け抜けていったかと思えば、曲がり角の向こうから別の制服姿が追うように現れ、こちらには目もくれず同じ方向へ消えていく。
阿鼻叫喚。撮影だと知らなければ、本当に学校で何か大事件が起きていると勘違いしても仕方がない光景である。
まあ、そう勘違いさせることこそ狙いなのだろう。
リアリティ重視という言葉にも程度というものがある気はするが、比例してそれほど真剣であるという裏付けでもある。
「止まらないでください。東階段まで一気に行きます」
完成した映像が一体どのようなものになるのか、密かに期待しながら俺は前を走るぽっと出のおじさんの指示に従い、廊下を進んでいく。
「逃げ役」である以上、勝手に寄り道したり撮影を台無しにしたりするのはよろしくないのは言わずもがな。
ぽっと出のおじさんが右へ曲がれば右へ、倒れた机を避ければ俺も同じように避け、少し先でこちらへ向かってきた女子生徒を彼が見えない壁で食い止めれば、その横を速やかに通り抜ける。
我ながら初参加にしては悪くない逃げ役っぷり。
これは他作のオファーも待ったなし――と、自己肯定感爆上がりな評価を下した直後、横手の教室から突然一人の男子生徒が飛び出し、俺の肩に掴みかかってきた。
「――っ!」
ぽっと出のおじさんが振り返るより先に身体を引き、伸びてきた腕を外側へと受け流す。そしてその勢いを殺さないまま肩へと手を添え、進行方向を少し変えてやれば、男子生徒は俺の横を通り過ぎ、そのまま廊下の壁へ両手をついた。
動画と本を頼りに独学で覚えた受け流しを実際に人へ使うのは初めてだったが、身体は思っていた以上に素直に動いてくれたようだ。
「君はーー」
「安心してください。俺は戦ってません。避けただけです」
「……」
「ただ俺は、逃げる役を任されたのであって、殴られる役を任された覚えはありませんので」
「……」
俺の鋭い反論に、ぽっと出のおじさんはしばし無言でこちらを見つめる。
そうこうしている間に、壁へと手をついた男子が再びこちらを向こうとしたところで、ぽっと出のおじさんがノールックで紙片を投げる。
すると、その足元を淡い光が走り、途端に男子の動きが鈍り、その場へ縫い付けられたように止まった。
「……今はとにかく先を急ぎましょう」
「合点承知之助」
そうして再び走り出したのだが、階段へ向かう途中、ぽっと出のおじさんの胸元から小さな電子音が鳴った。
彼は走る速度を落とさないまま胸元の通信機へ手を伸ばし、耳元に流れてくる声を聞き取るように僅かに顔を傾けた。
『橘さん、聞こえますか』
「良好です」
『二階東側で《置換体》が一斉に動き始めています。一般生徒の避難を優先してください。我々現場班は正門から入ります』
「了解しました。こちらでも現在、二年三組で一般生徒一名を保護しており、安全確保を優先し、東階段へ向かいます」
『了解しました。保護中の生徒は二年三組、葛城朔夜です』
「では、葛城君を連れて東階段に向かいます」
『了解』
短いやり取りが終わると、ぽっと出のおじさんは通信機を胸元のポケットへ押し戻す。
その一連のやり取りを後ろから聞いていた俺は、ここで初めて、ぽっと出のおじさんの名前が橘さんであること、同時に向こうは俺の名前まで把握していることを知った。
いつの間にか取り付けられていた廊下のカメラを使って出演者の確認まで行っているようだ。
撮影スタッフ同士の連携も随分と本格的で、何やら「《置換体》」だの「現場班」だのと役になりきった言葉を使っているあたり、カメラが回っていない場所でも世界観を崩さない方針なのだろう。
そのプロ意識の高さはゲストとはいえ、俺も見習って然るべきだと痛感する。何事にも本気で取り組める姿勢は美しい。
「橘さん」
「はい」
「俺にも役名があるのでしたら、教えていただけますか」
「………………いや、今は置いておきましょう」
十秒ほどの沈黙のあと、静かな口調で退けられてしまった。
映画というものは与えられた設定を忠実に守ることも大切だと思っていたのだが、そのあたりにも現場ごとの流儀というものがあるのだろうか。
そんなことを考えながら橘さんの背中を追っているうちに廊下の先に東階段が見えてきた。
これでようやく一階へと下りられる。
そう思ったのも束の間、その手前にはすでに数人の生徒が待ち構えるように立っており、横一列に近い形で廊下を塞いでいる。
橘さんもほぼ同時に気づいたらしく、それまで迷いなく進んでいた足取りをわずかに緩めた。
しかし、問題は前方だけではない。
気づけば背後からも、先ほどまではなかった複数の足音が徐々に近づいてきている。
前方には階段への道を塞ぐ生徒たち。
振り返った先からも追っ手が迫っている。
状況から鑑みて、どうやらただ学校の外まで走って逃げるだけで撮影終了ーーというほど簡単な役ではないかもしれない。
考えてみれば当然だ。何の障害もなく校舎の外まで走り抜けるだけでは、映画としてはいささか盛り上がりに欠けるというもの。「逃げ役」には追っ手が存在し、行く手を塞ぐ障害があってこそ画になる。
なるほど、ただの端役だと思っていた俺にも見せ場はきちんと用意されているらしい。
艱難汝を玉にす。男として一度引き受けた以上、最後まで真面目にやり遂げるべき。
いわゆる、腕の見せ所ってやつだ。




