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陸話:混淆

※他のタイトルと雰囲気を合わせるためエピソードタイトルを修正しました。

内容は変わっておりません。あしからずよろしくお願いします。

 


 もっとも、考える時間を相手が律儀に与えてくれるはずもなく、こちらが次の一手を模索している最中にも、能面男子は喉の奥から掠れた声を漏らしながら再び距離を詰めてくる。


 説得を試みるにしても、まずは落ち着いてもらわなければ話にならない。

 そのためには、差し当たってこちらへ向けて振り回されている拳をどうにかする必要があるだろう。


 俺は半歩だけ身体をずらして、顔面へ伸びてきた右腕を躱し、すれ違いざまに手首を掴んだ。殴り返すのが最も手っ取り早いのは間違いないが、相手はつい先ほどまで同じ教室で普通に授業を受けていた人間であり事情も分からないまま顔面へ拳を叩き込むのは、さすがの俺でも少々気が引ける。


 ならば、怪我をさせない程度に動きを止めればいい。


 掴んだ腕を無理に捻らず、前へ出ようとする勢いだけを横へ流しながら足を掛けると、男子の身体は思いのほか素直に傾いた。床へ倒れる直前に制服を引いて頭だけは打たないよう勢いを殺したものの、それでも随分と派手な音を立てて、男子は背中から床へ倒れ込む。


「少し落ち着け。何があった?」


 こちらに敵意はないという意図をはらんだ問いかけだったのだが、その甲斐もむなしく返事はない。


 ただの屍のようだ……という冗談はさておき、返事の代わりに男子は俺の手を振り払うと、ほとんど間を置かずに上体を起こし、床へ手をつきながら再び立ち上がろうとする。


 なるほど、少々みくびっていたようだ。


 今ので意識を失われては困るので、かなり加減したのだが……とはいえ、少しくらい大人しくなってくれることを期待していたが、どうやら望み薄だったらしい。


 ならば次は、もう少しだけ強くても問題ないだろう。


 そう判断したところで、不意に背後から制服の背を鷲掴みにされた。次の瞬間、強い力で後ろへ引かれ、身体が僅かに仰け反る。


「ん?」


 何事かと身体ごと振り返れば、いつの間に近づいてきたのか、水城が俺の制服を掴んだまま目の前に立っていた。


「水城?」


 呼び掛けても答えはなく、こちらを見る瞳にも普段のようなチアフルさは皆無。

 昼休みから様子がおかしいとは思っていたが、まさか体調不良の延長線上に、人の制服を掴む症状まで存在するとは。


「とりあえず、離してくれないか」


 背中に柔らかい感触――いや、それよりも俺の言葉は彼女に届かなかったらしい。水城はさらに力を込めてこちらを引き寄せようとし、俺のシャツの襟元が首へ食い込み、布地が嫌な方向へ伸びる。


「水城、離せ。服が伸びるだろ」


 制服が決して安くないことは周知の事実。

 俺の場合は成長期ということもあり、あと何年着られるかという別問題も抱えている。故意に寿命を縮められてはたまったものではない。


 注意しても改善が見られない以上、こちらとして力技で対処するしかない。

 制服を掴んでいる水城の指へ手を掛け、一本ずつ引き剥がすようにして力を外すと、そのまま腕を身体の外側へ逃がし、水城が踏み込んできた方向に入って重心を崩す。


 水城は勢い余って机に手をつき、隙が生じた。

 しかし、女子の顔を殴るという選択肢はできれば最後まで採用したくない。

 男子なら遠慮なく殴っていいという話ではないのだが、そこは俺個人の心情として勘弁してもらいたい。


「大丈夫か?」


 念のため声を掛けてみたものの、水城は机に手をついた姿勢からゆっくりと顔を上げ、先ほどの男子とよく似た、どこにも焦点の合っていない目でこちらを見返してきた。


 そして何を思ったか、口を大きく開き、「ごめん、ちょっとプロレスの練習がしたくなっちゃって、てへ☆」とか言い出すかと思った次の瞬間、俺の頬へ生温かいものが飛んでくる。


「……」


 数秒、何も言わずに水城を見つめたあと、徐に手の甲で頬を拭う。

 見ると、透明な液体が付着し、それは誰がなんと言おうが紛れもない唾液であった。


「……」


 この愚行は、巷で紳士と名高い俺の許容を超えた。無論、コミュニケーション能力の向上は確かに俺の課題ではあるし、せっかく得た実践の機会を簡単に投げ出すのもよろしくないとは思う。


 思うのだが、物事には限度というものがあり、俺は唾を吐きかけられて歓喜するような趣味はないし、笑顔で話し掛ければ殴られ、事情を聞けば掴みかかられ、そのうえ最後には唾まで吐きかけられて「はい、そうですか」と流せるほど聖人君子でもない。


 ここは一度、別のアプローチへ切り替えるべき。


 俺がそう結論を出したのと、教室のあちこちから椅子を引く音が重なったのはほとんど同時だった。


 周囲へ目を向けると、それまで騒ぎを前に戸惑っていた生徒たちの中から、一人、また一人と無言で席を立つ者が現れている。


 全員というわけではないが、立ち上がった人間には奇妙な共通点があり、こちらを見つめる顔からは揃って感情らしいものが抜け落ちていた。


 さすがに、ここまで来れば偶然では済まされない。


 集団パニックなのか、何かの薬物なのか、それとも俺の知らない病気でも流行しているのか。

 原因について思い当たるものはいくつかあるが、どれも確証はない。


 ならば、分からないものを無理に決めつける必要もなし。必要なのは原因究明ではなく、この場で怪我人を増やさないことである。


「動ける者は廊下へ出た方がいい」


 未だ状況を飲み込めずに固まっていた生徒たちへ声を掛けると、それをきっかけに何人かが弾かれたように教室の出口へ向かい始めた。


 その動きを阻もうとしたのか、先ほどまで床に倒れていた男子が再び立ち上がり、一番近くにいた女子生徒へ手を伸ばした。

 俺は横からその腕を掴み、ぐいっと引き戻しにかかる。


「相手は俺だ」


 男子がこちらを向いたかと思えば、今度はほとんど体当たりするような勢いで頭から突っ込んでくる。


 先ほどまでなら転ばせる程度で済ませていたところだが、何度止めても起き上がり、そのうえ他の人間にまで手を出そうとするのであれば、こちらも加減の基準を少しばかり変更せざるを得ない。


 というか、俺はいつの間に彼らからここまでの仕打ちを受けるような真似をしたのかが非常に気になるのる今日頃ごろ。


 しかし、それはそれ、これはこれ。


 俺は突進に合わせて身体を横へ逃がし、すれ違いざまにその脇腹へと鋭い拳を打ち込む。


「がはっーー」


 無論、全力ではないのだが、それでも今度は十分に効いたらしく、男子は大きく体勢を崩して数歩よろめきそのまま机へ覆い被さるように倒れ込んだ。


「お前はしばらくそこで休んでろ」


 これで一人ダウン。


 しばらく鈍い痛みにもがき苦しむだろうが、急に襲いかかってきた方に非がある。だからあとで職員室に呼ばれても歴とした正当防衛に徹した俺は悪くないと胸を張って主張するからご承知を。


 しかし、状況は一向に一転してくれないものだ。


 視線を上げれば、水城を含めた数人がこちらを囲むように身構え、謎に戦意むき出し状態。


 さすがの俺も、一人で全員を相手にする必要があるのかと、少々面倒に思い始める。


 だが、そのうちの一人だけは俺を見ていなかった。


 感情の抜け落ちた顔のまま水城の席へ向かい、昼休み明けから机の脇に立てかけられたままの大きな黒傘へ手を伸ばしている。


 何をするつもりなのかは分からないが、それでもあれを手に取らせてはいけないと、理由の分からない警戒が胸の奥を走った。


 そちらを止めようと足を踏み出した、そのとき。


 開いたままの教室の扉から、一人の男が勢いよく飛び込んできた。


「そこの君。今すぐ、その生徒たちから離れてください」


 年齢は三十代半ばくらいだろうか。教師でもなければ、少なくとも俺の知る学校関係者でもない。


 部外者が突然教室へ乱入してきたという時点で十分に怪しいのだが、今の彼はそんな疑問を差し挟む暇すら与えてくれなかった。


 教室内へ一度視線を走らせるなり、降って湧いてきた闖入者は上着の内側から細長い紙片を取り出し、二本の指に挟んだまま黒傘へ手を伸ばしていた生徒へ突きつける。


「シッ――」


 その表面を淡い光が走った直後、生徒の身体が何もない空間へ正面からぶつかったように弾かれ、数歩後方へ押し戻された。


「怪我はありませんか」


 黒いスーツに身を包んだ見知らぬ男がこちらへと淡々と尋ねる。

 ツッコミどころが多すぎて何からツッコんでいいのか分からないが、少なくとも今のところ俺を攻撃する意思はなく、隈が酷い目元はさておき瞳には知的さを感じる。


「ええ、委細問題ありません」


「……そうですか。では、こちらへ急いでください」


 味方らしい男の言葉遣い自体は丁寧だったが、こちらに選択の余地を与えるつもりはないらしい。

 まあ、教室内で何が起きているのか分からない今、自分より事情を把握していそうな大人の指示に、わざわざ逆らう理由もない。


 俺が倒れた机や椅子を避けながら男の側まで移動すると、彼は俺を背後に庇うように一歩前へ出た。

 その向こうでは、水城を含めた数人のクラスメイトがこちらとの距離を詰めるようにゆっくりと位置を変えている。


「よく聞いてください。あの生徒たちは外見こそ同じですが、本人ではない可能性が高いです」


 いきなり現れて何を言い出すかと思えば、まさかのクラスメイト全否定。


 いや、確かに、俺自身うまくクラスに馴染めているとは思っていない。思い上がってもいない。

 でも、だからといって、いきなり現れたぽっと出のおじさんまでにクラスメイトの存在まで否定されるのは、優しいことで有名な俺でもさすがに業腹というもの。


 そんな俺の怒りを知ってか知らずか――知って言っていたら、ただのいじめだと思う――ぽっと出のおじさんは淡々と続けた。


「本物の生徒は、校内とは別の場所へ取り込まれたと見ています。今そこにいるのは、怪異が作った代わりだと考えられます。見た目が同じでも、絶対に近づかないでください」


 なるほど。


 ……いや、全くもってなるほどではなかった。


 ――怪異。

 ――本物は別の場所。

 ――目の前にいるのは見た目が同じだけの代わり。


 一つひとつの日本語については理解できる。できるのだが、それらが一つの説明として組み上がった途端、俺の脳内では肝心の意味だけが綺麗に行方不明になる。


 そんな俺の理解度を確認している余裕もないらしく、ぽっと出のおじさんは近づいてくる水城たちを警戒しながら、さらに説明を続けてくる。


「学校全体の《境》が侵食されています。黒傘が媒介になっている可能性が高い。ただし、詳しい条件はまだ判明していません。ですから今は――」


「ちょっとすみません」


「何ですか」


「最初のところから、よく分からないのですが」


「……」


 こちらとしても、至って真面目に説明してくれている相手の話へ水を差すのは申し訳なく思う。


 だけど考えても見てほしい。


 つい数分前まで連立方程式を解いていた、いたいけな中学生に前触れもなく怪異だの《境》だのと言われたところで、それを即座に現実の話として理解しろというのは、少々難易度が高いと思うのは俺だけなのだろうか。


「……では、君はこの状況をどこまで理解していますか」


「分かったか、分からないかで言えば、全く」


「正直ですね」


「分からないものを分かったと言う方が危険かと」


「承知しています。ただ、今は一から説明している時間がありません」


 ぽっと出のおじさんと話している間にも、水城たちはこちらへ近づいており、教室の外からも誰かの叫び声や何か大きなものが倒れるような音が絶えず聞こえてくる。


 怪異とやらが何なのか、クラスメイトの異常行動についても依然としてさっぱり分からない。

 しかし、少なくともここで悠長に説明会を開いている余裕がないことだけは、俺にも十分理解できた。


 そしてそれは、ぽっと出のおじさんも同じ結論へ辿り着いたらしく、迫ってくる生徒たちと俺を交互に見比べ、もっと簡単な説明を探すようにしばらく沈黙する。


 やがて何かを諦めたように短く息を吐いた。


「……映画です」


「……今、なんと」


「映画の撮影です」


「映画、でしょうか」


「今は、そういうことにしておいてください」


 ――映画。


 その言葉を聞いて、俺は改めて教室を見回す。


 突然おかしな動きを始めたクラスメイトたち。


 何もない空間で人を弾き飛ばした光る紙片。


 校内のあちこちから聞こえてくる騒ぎに加え、ぽっと出のおじさんが口にしていた怪異や《境》といった聞き慣れない言葉。


 そのどれもが作品独自の設定や専門用語だと考えれば、一応の説明はつく。


 何より、先ほど目の前で起きた不可思議な現象についても、映画撮影のために用意された特殊な演出だと考えた方が、怪異なる未知の存在を突然説明されるよりは遥かに理解しやすかった。


「なるほど……つまり今は、撮影中ということですね」


「……そうです」


「なるほど、委細承知いたしました」


 水臭い。それならそうと、最初から言ってくれれば話は早かったのに。


 畢竟、ゲスト参加というやつなのだろう。


 俺的にも、突然現れたかと思えば、撮影に参加してくれとオファーされて多少の戸惑いがないわけではない。


 それでも事前に何も知らせないことも含めてそういう筋書きであり、リアリティに重きを置いた演出なのだと考えれば一応の理解はできる。


 ただ、いくらリアリティを追求するためとはいえ、授業のある平日に、しかも現役の中学校を舞台にここまで大掛かりな撮影を強行するのは、教育的にもモラル的にもいかがなものだろうか。


 思わず釈然としない顔をしていると、そんな俺の内心など知る由もないぽっと出のおじさんは、こちらへ構うことなく教室の外へ視線を巡らせていた。


 廊下の左右を確認し、胸元の通信機へ一度手を伸ばしたかと思えば、今度は先ほど使っていた紙片の残りを確かめるように指先で触れている。


 どうやら、俺が映画制作における教育的配慮について思案している間にも、撮影そのものは着々と進行しているらしい。


 ならば、その辺りの疑問については後回しでいいだろう。


 俺は監督でもなければ学校側の責任者でもなく、つい先ほど急遽参加することになっただけの素人である。


 畑違いの人間が現場の運営方針へ口を挟んだところで、百害あって一利なしというものだ。


「それで、俺は何をすればいいんでしょうか」


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