伍話:常の世、異なる貌を見せる刻
朔夜視点となります。
昼休みが終わってまだそれほど時間は経っていないが、つい先ほどまで廊下や教室を満たしていた話し声はすっかり鳴りを潜め、午後の日差しが差し込む教室には、チョークが黒板を擦る乾いた音と教科書やノートの頁をめくる音だけが穏やかに重なっていた。
俺も黒板に示された式を追いながら途中式をノートへ書き写していたのだが、意識の片隅にはどうにも昼休みに食べたパンのことが残っていた。
チョコクリーム味、あれは決して悪くはなかった。
生地は柔らかく、甘さも控えめ。昼食として見ればむしろ当たりの部類に入る。ただ、俺が引き当てたかったのは『猛獣の香草焼き風』であり、結局、猛獣とは何だったのかーー昼休みが終わった今となってもその疑問だけが未解決のまま残っており、気になり始めると商品名を考えた人間が、実際に何らかの肉を想定していたのか、それとも単に響きだけで決めたのかまで少し知りたくなってくる。
人間の性というのは実に怖いものである。
しかし、こればかりは考えたところで答えが出るものでもない。
俺はパンに関する検討を打ち切り、黒板へ意識を戻した。
すると、斜め前の席に座る水城の姿がふと視界に入る。
彼女は昼休みに資料室から戻ってきて以降、普段より静かに見える。
昼休みに戻ってきたときから多少様子が違っていたことを思えば、やはり体調でも優れないのだろう。聞くところによると、女子には女子特有の事情というものがあると以前ネットで見た覚えがある。いわゆる月のものと呼ばれるそれは、定期的に訪れるうえ人によって症状の重さにも随分と差があるらしい。
生物学上、男である俺にその辛さを真の意味で理解することはできない。だからといって、理解できないものを理解しようとしなくていい理由にはならず、紳士たるもの、そうした事情を知識として理解し、相手を慮るくらいの甲斐性は持っておくべき。
仮に水城の体調が悪化するようならそのときはナチュラルに手を貸せばいい。
まあ、俺が出張るまでもなく、彼女の周囲には頼れそうな友人たちが常時スタンバイしているように見えるので、実際に俺の出番が回ってくる可能性は低そうだが、備えあれば憂いなしともいう。
そう結論づけ、俺は妙に静かな水城からさりげなく視線をフェードアウトさせようとした際、隣の席の女子と不意に目が合った。
「……」
「……」
こちらを見る目にはどことなく訝しげな色が浮かんでいる。
……確かに、少し長く水城を見ていたかもしれないが、だからといってよからぬことを考えていたわけではないので、僅かに身体を引き、いつでも席を立てられるような体勢を取るのは勘弁してもらいたいです。
もっともこの弁明をそのまま口に出したところで、事態が好転する未来はあまり見えない。いや、むしろ余計な疑惑を招く可能性の方が高そうなまである。。
ここは沈黙が最善だろうと、何も見なかったことにして静かに黒板へ視線を戻したその直後、窓ガラスがかすかに震えた。
視線だけを横へ向けてみたものの、窓の外には朝から変わらない青空が広がり、校庭脇に植えられた木々の枝も大して揺れていない。
風が強くなった様子もなく、カーテンも午後の日差しを受けながら、ほとんど揺れていなかった。
ならば、上の階で誰かが机でも引きずったのだろうか。
若さに身を任せて青春でも迸らせているのかもしれない。
青春に喧嘩はつきものだ。
殴り、殴られ、蹴り、蹴り返され、ときには己の主張や正義を拳に乗せて語り合う。
何がそこまで彼らを駆り立てるのかは知らないが、恐らく惚れた女でも取り合っているのだろう。
大いに結構。
青春の煌めきを存分に迸らせるのは個人の自由である。
しかし、場所くらいは考えるべきである。惚れた女のために拳を握るのであれば、教室ではなく河川敷か屋上と相場が決まっている。少なくとも、俺の知る青春とはそういうものだ。
俺が一人納得して黒板へ意識を戻したのと、教室の後方で乾いた音が響いたのはほとんど同時だった。
何事かと振り返れば、一番後ろの列に座っていた男子の足元へ筆箱が落ち、中身のシャープペンや消しゴムが床の上へ散らばっていた。
そこまでは、鈍臭いの一言で片付けて笑い飛ばせる程度のことだったが、当の本人はなぜか落としたものを拾おうともしない。
机に頬杖をついているわけでも、眠っているわけでもなく、椅子に座った姿勢のまま、ただ窓の外をじっと眺めている。
「おい、そこ、何をやっているんだ」
案の定、黒板の前から教師の注意する声が飛んだ。
普段なら、これだけで慌てて姿勢を正しそうなものだが、男子は一向に何の反応も示さない。
クラス内での立場向上を目指して急なキャラ変でも敢行し、その果てに岩にでもなってしまったのか。
さすがに周囲も気になり始めたらしく、近くの生徒たちがちらちらと視線を向ける中、隣の席の男子が困ったような顔をしながらその肩を軽く小突いた。
授業中にいつまでも窓の外を眺め続けるのはよろしくない――という、ごく常識的な判断だったのだろう。
「おい、先生呼んでるぞ」
そこでようやく、窓へ向けられていた能面顔がゆっくりと正面へ戻る。
「聞こえてるのか?」
「……はい」
少し間を置いて返された声に教師は怪訝そうに眉を寄せたものの、それ以上追及することなく授業へ戻った。
ふむ、察するに眠気でも残っていたのだろう。無理もない。昼食を食べたあとの授業は眠くなるのが常で、五限目という時間帯を考えれば珍しいことでもない。
実際問題、教室を見渡せば、眠気に敗北を喫している不届者――もといクラスメイトはいつでも目につく。
ただ、先ほどの男子だけは、それとは少し違っているように見えた。教師から注意を受けたあとも床へ散らばった筆記用具を拾おうとはせず、前を向いたまま微動だにしなかったからだ。
落とした本人が拾おうとしないので、隣の彼が「おい、お前も拾えよ」と愚痴ながら世話を焼いている。名前は知らないがきっと良い女房――もとい、旦那になるに違いない。
……気になるのは、やはり能面顔の彼の方だが、まあ、人には人の事情というものがある。
能面顔の彼の代わりに弁明するとすれば、やはり彼もお年頃である。授業中によからぬことを考え、オスの部分が刺激されて立つに立てなかったのだろう。いや、ある意味で別の部分はいきり立っていたのだろうが……それは言わないでおくのが優しさというものだ。
俺が優しさについて感慨深くなっていると、今度は廊下の向こうから大きな物音が聞こえてきた。
何か重いものが床へ倒れたような鈍い音で、その後に続いて複数の足音が慌ただしく走っていく。
教室のヤンチャボーイズ&ガールズが一斉に廊下側へ顔を向ける中、きっと更年期である担当教師もチョークを持った手を止め、少し遅れて聞こえてきた女子生徒らしき声に表情を変えた。
「……何だ?」
教師は教卓にチョークを置くと、苛立ちを隠そうともしない足取りで教室を出ていく。扉へ手を掛けたところで一度だけ振り返り、「全員、席にいろよ」と言い残し、今度こそ廊下へ姿を消した。
扉が閉まりきるより早く、教室内には小さなざわめきが広がった。
当然の成り行きといえよう。俺たちくらいの年代ともなれば、「席にいろ」と言われただけで素直に勉学へ意識を戻せるほど、誰もが授業を愛しているわけではない。
瞬く間に近くの席同士で何があったのかと囁き合う声が生まれ、廊下側の生徒などは、身体を傾けて扉のガラス越しに外の様子を窺い始める始末で、教室がイベントモードへ突入するのは避けられなかった。
俺も多少は気になったが、そこは分別ある大人の対応というものを心得ている。
火災報知器が鳴っているわけでもなければ、避難を指示されたわけでもない。ましてや教師からは席にいるよう言われているのだから、今の俺にできることは大人しく待つことくらいである。野次馬根性を発揮して余計な混乱を増やすよりは、その方がよほど建設的だ。
そんなことを考えている間にも、廊下の騒ぎは収まらなかった。
誰かを呼び止める教師の声に、別の場所から上がった短い悲鳴が重なり、さらに遠くでは机か椅子でも倒したのか、硬いもの同士がぶつかるような音まで響いてくる。
そのただならぬ気配は、思春期真っ只中の俺たちにも十分伝わったらしい。先ほどまで好奇心混じりだった教室のざわめきは次第に不安を帯び始め、何が起きているのか確かめようと席を立つ生徒も少しずつ増えていった。
そんな中、周囲のざわめきに加わるでもなく、かといって何が起きているのか確かめようとする様子も見せず、騒ぎから一人だけ取り残されたようにしていたのが、先ほど教師から注意を受けていた男子だった。
一見すれば、落ち着いて席に残る優等生とも、単に周囲の勢いへ乗り遅れているだけとも取れたが、気づけば席を立ち、床へ散らばった筆記用具を気にも留めずに踏み越え、そのまま教室の前方へ向かってゆっくりと歩き始めていた。
「おい、どこ行くんだよ」
近くにいた女房役の男子生徒が声を掛けても返事はない。
しかし、進行方向にいた別の男子が不思議そうに道を空けようとした、その瞬間だった。
能面男子の腕が伸び、相手の制服の胸元を掴んだ。
「うおっ!?」
身体ごと勢いよく押された男子は教卓の角へぶつかり、そのまま床へ尻餅をついた。
それまで微動だにしなかった姿からは想像もつかないワイルドな挙動は、教室を満たしていたざわめきを一瞬にして途切れさせるには十分だった。
「ちょっ、何やってんだよ!」
すぐ近くにいた別の男子生徒が腕を掴んで引き離そうとするが、能面男子はそちらへ顔を向けることすらなく、乱暴に腕を振っただけで相手を机の間へ弾き飛ばした。
青春の煌めきは伝播するというが、これは少々、放っておくにはよろしくない状況だった。
能面男子と襲われた二人の間に地球から月まで届くほどの事情があるにせよ、ドブに吐き捨てても一向に構わないようなしょうもない事情であるにせよ、すでに二人が危ない目に遭い、この場に頼れる大人もいない以上、誰かが止めなければ被害がさらに増える可能性が高い。
……仕方あるまい。ここは俺が一肌脱ぐほかないようだ。
俺は椅子を引いて立ち上がり、ちょうどこちらへ顔を向けた男子と徐に目を合わせる。
そこでふと、今朝から一つ試してみようと思っていたことを思い出した。
それは、水城から学んだコミュニケーション能力改善の第一歩。
俺も馬鹿ではない。ちゃんと覚えている。まあ、状況としてベストかと聞かれれば、多少の疑問は残る場面ではあるが……相手を落ち着かせるという意味では、むしろ今こそ実践の好機とも取れる。
それに、習うより慣れろともいう。
俺は脳裏に浮かんだベストアンサーに従い、できるだけ友好的に見えるよう口元に笑みを作って、声を掛けた。
「落ち着け。まずは話を――」
次の瞬間、男子の表情が大きく歪んだ。
「ァ……あ、ああァァッ!」
絶叫とともに、勢い任せの拳が飛んでくる。
状況を理解できないまま咄嗟に上体を引けば、固く握り締められた拳が鼻先を掠め、そのまま虚しく空を切っていった。
ふむ、どうやら、やり方が違ったらしい。
ある種、分かっていたことではあるが、コミュニケーションというのはなかなか難しいものだ。
いや、そもそもの前提として、俺は一つ勘違いをしていたのかもしれない。
たとえこちらが友好的に接したところで、相手も同じように応じてくれるとは限らないのだ。
そんな当たり前のことを今さらながら身をもって学んだ俺は、眼前で口の端から唾を垂らしている異常者――もといクラスメイトを前にして、では一体どうすれば友好的な関係を築けるのかと、改めて真剣に考えることにしたのだった。




