肆話:空席なき失踪
※本日は二話連続投稿となっております。
こちらは第四話の更新となりますので、まだ第三話をお読みでない方は、先に第三話からお楽しみいただけますと幸いです。
水城琴音の所在確認を指示してから、およそ六分後。机上の無線機が短い呼び出し音を鳴らした。
『巡回担当から橘さんへ。水城琴音を確認しました』
「場所を教えてください」
『二年三組です。たった今、教室へ戻りました』
返答を聞いた橘の眉がわずかに動いた。
「……教室ですか?」
『はい、友人と話しています。特に騒ぎもありません』
水城が最後にカメラに映ってからまだ数分しか経っていない。資料室へ向かう途中で別の教室へ寄り、たまたま監視カメラの死角だけを選ぶような経路を通って戻った……そう考えれば説明できなくはない。
しかしそうだとすれば、わざわざそんな面倒な道を選ぶ理由がないうえ、水城が曲がり角へ差しかかった時刻には、これまで確認されていない規模の《境》の変動まで記録されている。
偶然を疑うのは調査の基本だ。同時に、偶然だけで説明を押し通そうとするのもまた調査とは呼べない。
「そのまま監視を続けてください。本人への接触は継続して避けるようにお願いします」
『了解』
橘は無線機を置き、すぐに二年三組付近の映像を呼び出させた。
画面が切り替わると、教室前の廊下を歩く水城琴音の姿が映り込んでいた。両腕に抱えていたファイルはなくなり、何事もなかったように教室へ入っていく。
画面の下端には、水城の身体の脇から伸びる細長い黒いものが一瞬だけ覗いていたが、行き交う生徒の身体と重なって形までは判然とせず、鞄の一部なのか、別の誰かの持ち物なのかすら、この映像だけでは判断できない。
入口近くにいた女子生徒から声を掛けられると、そちらへ顔を向け、短く返事をする。
橘は先ほどの映像と現在の映像を並べさせ、時刻を確認する。
――十三時十三分十八秒、資料室周辺を拾う観測器が、それまでにない深い《境》の変動を記録。その数秒後、水城はカメラの死角へ消えた。
――十三時十九分、水城は教室前の映像へ再び姿を現している。
その間、およそ六分。
時間だけなら資料を届けて戻ってくることは十分可能だった。問題はそこに至るまでの映像が一つもつながっていないこと。
資料室へ続く廊下の別カメラにも、そこから教室へ戻る経路にも水城の姿は確認できない。
まるで死角へ入った瞬間に一度校舎から抜け落ち、別の場所から突然戻ってきたような動きになっていた。
「資料室は確認できますか?」
「学校側を通します」
数分もしないうちに、担任から預かったファイルが指定された棚へきちんと収められていることまで確認が取れた。
つまり、水城琴音は頼まれた仕事を終えている。それにもかかわらず、資料室へ入るまでの姿も、そこから教室へ戻るまでの姿も、途中のカメラには一度も映っていない。
……単純な失踪では説明がつかない。
もし、死角へ入る前の水城と今教室にいる水城が同じ人間ではないとしたら。
もし、本物はあの場所で何かに取り込まれ、その代わりに同じ顔を持ち、直前までの行動を引き継いだ何かが仕事を終えて教室へ戻っていたら。
突飛な仮説だった。
けれど、現時点の記録を最も少ない矛盾で説明できるのも、その仮説だった。
「巡回担当、水城琴音の様子は?」
『外見上の異常はありません。友人と会話しています。ただ……』
「ただ?」
『水城の机の脇に、大きな黒傘が一本あります』
巡回担当の発言を受け、橘の視線が机上の校内図へ落ちた。
「本人が持って戻るところは確認できましたか?」
『断定はできません。教室前の映像でも、はっきりとは映っていませんでした。簡易観測器にも、水城本人から直接出ていると断定できる反応はありません。ただ、水城と黒傘の周辺だけは基準値まで戻りきっていませんので、残留反応なのか、どちらかに付随しているものなのか、ここからでは判断できません』
「分かりました。どちらにも触れず、距離を保って観察を続けてください」
『了解』
橘はそこで通信を切ると、映像の中では、友人らしい女子生徒が水城へ何かを話していた。
彼女はほんの一拍遅れて相手へ顔を向け、笑みを返す。死角へ入る前の映像では、すれ違った生徒へほとんど間を置かず笑みを返していたが、今の反応はそれよりわずかに遅かった。
そのごくわずかなずれは、疲れているだけでも説明できるが、橘としても単なる印象を証拠として扱うつもりはない。映像の断絶と《境》の変動、そして黒傘が重なったあとでは、見過ごせる違いでもなかった。
当然、周囲にいる人間はその反応を不自然だとは思っていない。教師も同級生も、教室に戻った存在を水城琴音として扱っており、出席記録には名前が残り、教室の人数を数えても一人分が欠けることはない。
だが、もし、今教室にいる水城が本物の水城琴音ではないとしたら。
……誰も、彼女が行方不明になったことに気づいていないのか?
そこまで考えたところで、橘の中に一つの疑問が浮かんだ。
「……待ってください」
向かいで記録を整理していた調査員が顔を上げる。
「どうしました?」
「三日前の記録を出してください。西棟二階、黒傘が映った日です」
「三日前?」
「ええ」
橘の指示を受け、調査員が該当する映像を過去の記録から探し出す。映像の時刻を当日の観測記録と合わせ、二つを並べて表示した。
対象は三日前の午後。大きな黒傘が廊下の一角に開いたまま置かれ、その近くを一人の男子生徒が通っている。
橘たちも一度確認した映像だったが、そのときは黒傘そのものの追跡に意識を向けていたため、その生徒が死角へ入ったあと、どこへ向かったかまでは深く追っていなかった。
そして時刻を合わせて観測値を表示すると、そこにも小さな沈み込みが残っていた。
……今日ほど深くはない。ないが、それでも形が似ている。
「この男子生徒は?」
「一年二組の生徒です。欠席記録なし。今日も登校してます」
「現在位置を確認してください」
「了解です」
ほどなくして確認が取れ、その男子生徒は今日も普段どおり登校し、現在も校内にいることが分かった。
昨日までなら、それで一つの疑いを潰したことになっていただろう。黒傘の近くで《境》の揺らぎが起きていたとしても、当人が変わらず学校生活を送っている以上、少なくとも人的被害には結びついていない――そう判断していた。
だが、水城琴音の一件を見たあとでは、むしろその「今も普通にいる」という事実こそが引っかかる。
橘は何も言わず、別の日に黒傘が確認された地点の記録を開かせた。
するとそこでも一人の女子生徒がカメラの死角へ入った直後、それまで単なる揺らぎとして処理されていた弱い《境》の変動が残っている。
念のため現在の状況まで照合してみれば、その生徒も欠席することなく学校へ通い続け、出席簿には当然のように名前があり、家族から捜索願が出された記録もなかった。
もう一件。
調べるとさらにもう一件。
過去四日分だけでは足りず、境務所に保管されていた二週間前まで遡る観測ログへ、調査を広げると、それまで単なる揺らぎとして処理されていた反応の中から、水城琴音と似た波形が少しずつ浮かび上がってきた。
確実に映像と照合できるものだけでも複数。人物を特定できない記録や、カメラのない場所で起きた変動まで含めれば、その数はさらに増える。
いつの間にか、準備室の空気は昼休みのものではなくなっていた。
「橘さん……」
「ええ」
調査員が言い切る前に、橘は答えた。
これまで彼らは学校内で怪異らしい異常が起きているにもかかわらず、人的被害が確認できないことを一つの判断材料にしていた。
だが、その前提そのものが間違っていたとすれば。
被害者がいなかったのではなく、被害を受けた人間が、そのまま「いるように見えていた」のだとすれば。
橘は椅子へ座り直し、机の上に散らばった記録へ目を走らせる。
「出席簿だけでは判別できません。黒傘の目撃地点と《境》の変動、その前後を全部洗い直してください」
「……了解しました」
「監視映像だけでは足りません。保健室、部活、図書室、購買、教師の記録も使います。数分でも所在が途切れた生徒はすべて拾ってください」
指示を受けた調査員がすぐに記録を開き、その間にも巡回担当から無線で情報が送られてくる。
そこから十五分近く、準備室では会話らしい会話が途絶えた。
映像を巻き戻し、観測時刻と照合し、候補となった生徒の記録を一人ずつ洗っていく。
該当しない者を外すたびに新しい映像が開かれ、巡回担当から報告が届くたびに、校内図へ新たな書き込みが増えていった。
橘がふと時計へ目を落としたときには、五限目はすでに始まっていた。
調査を始めた当初には意味を持たなかった些細な違和感が、水城琴音という一本の線を得たことで少しずつ別の形を見せ始めていた。
昨日まで「授業に遅れてきた」と処理されていた生徒。
昼休みに十分ほど所在が分からなかったものの、本人が普通に戻ってきたため誰も気に留めなかった生徒。
部活動へ向かったはずが、なぜか別棟から現れた生徒。
いずれも、その前後で黒傘が確認されるか、《境》の微弱な変動が記録されている。
確実性の高い事例だけでもすでに水城一人では済まなかった。
橘は机へ両手をついたまま、次々と並べられていく記録を睨んだ。
四日前から校内へ入り、映像を見て、記録を洗い、聞き取りまで続けてきたが、それでも人的被害が出ていないという前提を疑いきれず、その間にも怪異は彼らの目の前で生徒を一人、また一人と取り込んでいたことになる。
「……こちらの前提を利用されましたか」
誰に聞かせるでもなく呟き、橘は一度だけ深く息を吐いた。
もっと早く気づけていればと考え始めれば思い当たる場面はいくらでも出てくる。だが、それを数え始めたところで、すでに起きたことは変わらない。
大切なのは、何人やられたのか。
本物の生徒たちはどこにいるのか。
そして、この怪異が次に何をするつもりなのか。
分からないことは、まだ山ほど残っている。それでも少なくとも相手がどうやって被害を隠していたのか、その尻尾だけはようやく掴んだ。
橘は机から手を離し、内線用の端末を引き寄せた。
「予備調査はここまでです。本調査への移行を境務所へ上申します」
橘は接続された回線へ、自分たちが確認した内容を要点だけにまとめて報告していく。
――天ヶ原中学校内で、複数の生徒が怪異によって置き換えられている可能性が高いこと。
――黒傘の出現、《境》の変動、生徒の足取りが映像上で途切れる事例、その三者に相関があること。
――そして、置き換わった存在が日常生活を継続しているため、通常の出欠や行方不明者記録では被害規模を把握できないこと。
報告を受けた福岡境務所側の判断も早かった。
案件は即座に本調査へ格上げされ、現場対応を担う退魔師の派遣準備が開始された。
学校側にはまだ事実を伏せたまま、校内にいる調査員の増員と観測範囲の拡張が決まり、必要に応じて九州統境司へ情報を共有することも併せて承認された。
ただし、全校生徒を即座に避難させる案については保留となった。
本物の生徒とそれに置き換わった存在を見分ける方法が確立されていない。今の状態で一斉避難を行えば、置き換わった存在――《置換体》まで一般市街へ流出させる可能性がある。
さらに黒傘との接触条件が分からない以上、数百人の生徒を同時に移動させること自体が、新たな被害を引き起こしかねなかった。
代わりに学校側へは、設備上の異常が確認されたという名目で、生徒を教室から不用意に移動させないよう指示が出された。事情を知らない教師たちは、次の連絡があるまで通常授業を続ける。
現場班が到着し、避難経路を確保するとともに、《置換体》への対処手段を整えるまで、校内の人間を可能な限り動かさない。それが、現時点で最も被害を広げにくい選択だった。
慎重すぎる判断にも見えるが、相手の規則を知らない状況で人間側だけが慌てて動けば得をするのは大抵怪異の方だと橘は知っていた。
「橘さん」
連絡を終えたところで、向かいにいる調査員が校内に在籍する協力要請可能な術者の一覧を画面へ表示した。
「境務所から協力要請可能な術者にも連絡を入れるそうです。九重家の術者が一人在籍しています」
橘は端末を引き寄せ、表示された一覧へ目を走らせた。
「至急、正式な依頼を通してください。本来、彼女はこちらの指揮下にいる人間ではありません」
「分かりました」
該当するのは三年生の九重紫苑。
まだ中学生ではあるが、九重家から現場補助を認められており、必要が生じた場合には境務所から正式に協力を要請できる術者として、事前資料にも記載されていた。
とはいえ、彼女は境務所の指揮下にいる人間ではない。こちらの判断だけで動かすことはできず、九重家を通した正式な手続きが必要になる。
まして今は、怪異に気取られないまま校内を動ける人間が必要な状況だった。普段から生徒としてこの学校にいる彼女は、その点だけを見ても得難い協力者である。
◇⚡︎◇
九重紫苑のスマートフォンが制服のポケットの中で短く震えたのは、五限目が始まってしばらくした頃だった。
画面に表示された発信元を確認した紫苑は、「家からの緊急連絡です」と教師へ小声で断りを入れ、二階と三階をつなぐ東階段の踊り場まで移動した。
周囲に誰もいないことを確かめたところで、ようやく着信へ応じた。
「九重です」
『福岡境務所です。現在、天ヶ原中学校内で調査中の案件について、正式に協力をお願いしたくご連絡しました』
「内容を伺います」
担当者から校内で複数の生徒が何らかの怪異によって置き換えられている可能性が高いこと、その前後で黒傘が確認されていることから媒介として関与している疑いが強いこと、さらに現場対応を担う退魔師がすでに派遣準備へ入っていることが手短に説明されていく。
紫苑は途中で口を挟むことなく、異常の監視と必要に応じた現場支援へ協力してほしいという依頼まで聞いた。
「承知いたしました。ただ、その前に一点だけ確認をお願いしてもよろしいでしょうか」
『はい』
「二年三組の葛城朔夜さんは、現在どちらにいらっしゃいますか」
通話の向こうでわずかな沈黙があり、続いてキーボードを操作する音が聞こえてくる。
『葛城朔夜……確認しました。現在は二年三組の教室内です。調査班からも、今のところ本人に関する異常報告は上がっていません』
「そうですか」
それを聞いて、紫苑は胸の内に張り詰めていたものを、ほんのわずかに緩めた。
「ありがとうございます。それでしたら、ひとまず安心いたしました」
『失礼ですが、お知り合いですか?』
「ええ。少々」
穏やかに答えながらも、それ以上を説明するつもりはなかった。
境務所にとって葛城朔夜は、天ヶ原中学校へ通う十四歳の男子生徒でしかない。少なくとも今は、そう認識されている方が都合がよかった。
その後、必要事項をいくつか確認して通話を終えると、紫苑はスマートフォンを制服のポケットへ戻した。制服の袖口にそっと指を滑らせ、その内側に忍ばせた数枚の符の感触を確かめる。
それから一つ下の階へ、そこに彼がいることを確かめるようにほんの一瞬だけ視線を落とした。
やがて静かに踵を返すと、動きに合わせて腰まで届く艶やかな黒髪が背中でさらりと翻る。
そして何事もなかったかのような落ち着いた足取りで、紫苑は階段を上っていった。




