参話:日常に落ちる陰
いつも『雷鳴の使徒』をお読みいただき、誠にありがとうございます。
本日は、第三話・第四話の二話を続けて投稿いたします。
少しずつ物語が動き始める回となっておりますので、ぜひ続けてお楽しみいただけましたら幸いです。
今後とも『雷鳴の使徒』をどうぞよろしくお願いいたします。
昼休みを迎えた校舎は、午前中の授業時間とは比べものにならないほど賑やかだった。
準備室の閉じた扉越しにも、廊下を行き交う生徒たちの声が聞こえ、窓の外へ目を向ければ、校庭の隅では昼食を早々に済ませたらしい男子生徒がボールを追いかけている。
六月の日差しは朝よりもいっそう強まり、昨日降った雨の気配など、木々の葉に残ったわずかな水滴を除けばほとんど感じられなくなっていた。
そんな学校らしい昼の空気とは対照的に、準備室の中では朝から変わらない地味な作業が続いている。
橘はコンビニで買ってきたおにぎりを片手で食べながら、長机の上に広げた校内図とノートパソコンの画面を交互に見比べ、向かいに座る調査員も蓋を開けた弁当を脇へ置いたまま、黒傘の目撃記録を整理している。
今朝、確認されたものを含め、黒傘の目撃地点は十二箇所。時刻順に並べ直しても、特定の教室や学年へ集中している様子はなく、昇降口や渡り廊下、階段付近といった人通りの多い場所にやや偏る程度。
登下校や休み時間に多く確認されている点も、人が増えれば目撃の機会も増える以上、出現条件とは断定できなかった。
「……駄目ですね。場所だけ見ても法則らしい法則がないです」
向かいで記録を整理していた調査員が少し疲れたように肩を回した。
「そう簡単に見つかるなら、四日もこの部屋には籠もっていません」
「ははっ、ですよね……」
しみじみとした返事を聞きながら、橘は残っていたおにぎりを口へ運んだ。
実際、四日で怪異の法則を見抜ける方が稀だった。場所や時刻、狙う対象さえ定まらない以上、条件と偶然を切り分けるだけでも時間を要する。現段階で黒傘と《境》の変動に関連がある可能性を拾えただけでも上出来だった。
「法則が見えないなら見えるまで記録を増やし、法則を暴きます」
橘が空になった包装を丸めてゴミ袋へと入れたそのとき、机の端に置かれていた観測端末の波形が緩やかに続いていた基準線から大きく沈み込んだ。
その変化は、この四日間、ほとんど同じ画面を眺め続けてきた橘には、それまでの細かな揺らぎとは形が違うことが一目で分かった。
「今の反応、拾えましたね?」
向かいにいた調査員もすでに箸を置き、端末へ身体を寄せている。
「十三時十三分十八秒。二階東側の三番が一番強く出ています。四番にも遅れて反応あり」
橘は報告を聞きながら校内図を引き寄せ、観測器の配置と照らし合わせた。
報告に上がった二階東側は、二年生の教室が並ぶ区間と資料室や特別教室へ続く廊下との境目に当たる。
これまでにも小さな揺らぎが一度記録されている場所。だが、今回の波形はそのときより明らかに深かった。
「映像を出してください」
調査員がノートパソコンを操作すると、画面が校内の防犯映像へと切り替わる。
昼休みの廊下には多くの生徒が行き交い、友人同士で肩を並べて歩く者もいれば、教室へ戻るのか弁当箱を抱えて早足で通り過ぎていく者もいる。
これだけ人がいれば、観測値が揺れた瞬間に近くを通っていた人物を特定するだけでも骨が折れそうだった。
それでも橘たちは、画面に映った人間の行動を一人ずつ追っていく。
観測地点から離れていく男子生徒が二人。
反対側の階段へ向かう女子生徒が三人。
職員室方向から歩いてきた教師が一人。
さらに十三時十三分を過ぎたところで、画面の右端から一人の女子生徒が現れた。
両腕には何冊かの薄いファイルを抱え、行き交う生徒を器用に避けながら廊下を歩いている。
画面隅の時刻が十三時十三分十八秒へ迫る。ファイルを抱えた女子生徒が観測地点へ歩みを進め、廊下の角へ差しかかった瞬間、波形は最も深く沈み込んだ。
そしてその数秒後、女子生徒がカメラの画角から消えるのとほぼ同時に、反応も何事もなかったように基準値近くまで戻っていた。
「この女子生徒、追えますね?」
「はい」
調査員が学校側から提供された生徒名簿を端末上で開き、制服の学年章と顔写真を照らし合わせ、該当する生徒の記録を呼び出した。
「二年三組、水城琴音。十四歳。直近の出欠や保健室の利用記録にも目立った異常はありません」
「行き先は?」
「持ってるのが教材なら……位置からして資料室かと」
橘は調査員に先ほどの映像を十三時十三分まで巻き戻させた。すると、すぐにファイルを抱えた水城琴音が再び画面の中を歩いていく。
知り合いらしい生徒とすれ違いざまに短く言葉を交わし、一度だけ笑みを見せ、そのまま廊下の角へ差しかかる。
歩き方にも周囲を警戒する様子はない。教師から頼まれごとを押しつけられたようなごく普通の中学生にしか見えなかった。
その姿だけを見れば、怪異と結びつける理由など何もないのだが、その先にあるどの映像にも水城琴音は現れなかった。
「次、東廊下をお願いします」
再び映像が切り替わる。資料室へと向かうなら、水城は十数秒もすればこちらへ現れるはずだった。
画面の中では別の生徒が何人か行き交い、やがて一人の教師が資料を抱えて通り過ぎる。
そしてその後ろから男子生徒が二人続いたが、やはり水城の姿はない。
橘は画面隅の時刻を確認し、そのまま何も言わず映像を見続けた。
――二十秒。
――三十秒。
廊下の距離を考えれば、歩くのが遅かったとしても、とっくに到達している頃だった。
「別の経路も確認します。階段前と最初の映像を同時に出してください」
「了解です」
調査員が画面を分割し、水城が途中で進路を変えた場合に通る映像を並べていく。
西側の階段前には現れなかった。教室へ引き返した様子もなく、資料室前のカメラにも映っていない。元の映像を巻き戻しても、死角から戻ってくる姿は確認できなかった。
無論、映像と映像の間には死角がある。
途中で別の教室へ入った可能性も、カメラの届かない場所で誰かに呼び止められた可能性も残っている。映像から消えたというだけなら、まずはそうした現実的な理由から潰すべきだ。
しかし今回は、水城が死角へ入ったのとほぼ同時刻に、《境》の波形がこれまでにない深さまで沈んでいる。片方だけなら偶然で済ませられるが、二つが同じ時刻、同じ場所で起きた以上、橘には見過ごせなかった。
橘は画面から目を離さないまま右手を伸ばし、机の上に置かれていた無線機を取った。
「校内巡回中の調査員へ。二年三組、水城琴音を確認してください。なお、接触は避け、発見した場合は距離を保ち、現在位置だけ報告を」
『了解』
短い返答を最後に無線が途切れた。緊張の満ちた準備室へ、壁一枚隔てた向こうから生徒たちの笑い声と、走るなとたしなめる教師の声が届いた。
窓の外には朝から変わらない青空。
防犯映像にも、先ほどまでと何一つ変わらない平凡な校内の風景が映っていた。
その日常のただ中で、水城琴音という一人の女子生徒だけが、二台のカメラの狭間からきれいに姿を消していた。
――十三時十三分十八秒。
橘が観測端末へ視線を落とすと、画面に残った深い波形だけが、そこで何かが起きたことを示していた。




