弐話:兆しを追う者たち
福岡市立天ヶ原中学校へ出入りするようになって、今日で四日目になる。
午前八時を少し回ったばかりの校舎には、登校してきた生徒たちの声がそこかしこから響いていた。廊下を走る足音に、教室から漏れてくる笑い声。時折、窓の外から運動部らしい掛け声まで混じってくる。
そんな朝の賑わいから一枚壁を隔てた準備室で、橘修司は折り畳み椅子へ浅く腰を掛け、ノートパソコンの画面を眺めていた。
普段は教材や古い備品を置いているらしい部屋なのだが、この数日だけは福岡境務所の臨時調査室として借り受けている。もっとも、生徒や大半の教職員には、そんな説明をしているはずもない。橘たちが名乗っているのは市から派遣された設備安全調査の職員という、何とも面白みに欠ける肩書きだった。
橘に言わせれば、それでいい。人目を忍ぶ仕事というものは、面白みがないくらいでちょうど良く、鮮明に誰かの記憶に残った時点で、大抵どこかで間違えているものだ。
壁際には、それらしく見せるため、工具箱や測定機器が並べられ、長机の上にも校舎の設備図面が何枚か広げられている。その中に、紛れるように置かれた二台のノートパソコンと小型の観測端末。それらだけが、本来ここで行われている仕事を物語っていた。
「七時四十分から、もう一度お願いします」
「了解です」
橘の注文通り、向かい側に座っていた若い調査員がマウスを操作すると、画面の隅に表示された時刻が午前七時四十分まで戻っていく。
これは今朝、学校の防犯カメラに記録されたもの。これで橘が同じ映像を見るのはこれで三度目になる。
登校のピークとしてはまだ少し早く、映像の画面の中を通り過ぎていく生徒の姿はまばらだった。
友人と並んで歩く者もいれば、一人でスマートフォンを眺めながら校門をくぐる者もいる。朝から元気に走っている男子生徒を、生活指導の教師らしき男が何か言いながら呼び止めている姿まで映り込んでい
「ここです」
調査員の声に、橘は画面へと向けていた視線をわずかに細める。
橘が捉えたのは、校門から少し離れた歩道を歩いてくる一人の生徒。
天ヶ原中学校の制服を着ていることは分かる。分かるが、頭上へ差された大きな黒傘が顔のほとんどを覆っているため、男子なのか女子なのかまでは映像から判別できない。
学校に設置された防犯カメラは、校門を出入りする人の姿を広く捉えるためのもので、顔が正面から鮮明に映れば名簿写真との照合もできるが、傘の影に隠れた顔や胸元の名札まで読み取れるほどの解像度はなかった。
「……」
今朝は、雲らしい雲もほとんど見当たらないほどの快晴だった。映像の端に映り込んだ道路には朝日がくっきりと落ち、登校してくる生徒たちの足元には長い影まで伸びている。そんな中を、黒傘の生徒だけが雨でも降っているかのように歩いていた。
奇妙ではある。だが、それだけなら橘たちが四日も学校へ張り付く理由にはならない。
今時、紫外線を嫌って日傘を使う生徒など珍しくもなく、ファッションで大きな傘を差したがる人間がいたところでそれは個人の自由。
怪異という非日常的な存在を日常的に扱う仕事をしていると、何から何まで怪しく見えてしまう時期がある。
ある種、刑事に近いその発想に取り憑かれれば最後、コンビニ前で座っている猫にまで霊的な意味を見出しかねない。
「そのまま、続けてください」
橘の指示にて再び映像が動き出す。
黒傘の生徒が校門へ近づいていく中、後方から歩いてきた男子生徒がその横を追い越そうとした、その瞬間、黒傘が男子生徒の側へわずかに揺れた。
持ち手が進路を寄せたのか、傘が風に流されただけなのか。広角映像からは判別できなかったが、橘はそこに違和感を覚えた。
男子生徒は黒傘へと気づき、足を止めたわけでもなければ、驚いて距離を取ったわけでもない。ただ、追い越す直前に進路をほんの少し外側へ膨らませ、傘の縁へ触れないよう身体を避けている。
……いや、動作自体は自然。
狭い場所で傘を差している相手がいれば、誰だって同じように避ける。問題は、昨日、雨が降り出す前にも同じような事例が二件確認されていること。
映像では、二人とも黒傘を避けるように進路を変え、そのうち一人はすれ違いざまに傘へ顔まで向けていた。
それにもかかわらず、その日のうちに行った聞き取りでは、二人とも最初は「覚えていない」と答え、映像の状況を伝えてようやく「そういえば何か避けた気はする」と曖昧に首を傾げた。
橘は顎へ手を添えたまま、その場面が通り過ぎていくのを見届ける。男子生徒を先に行かせた黒傘は、そのまま校門をくぐり、やがて画面の下端へ消えた。
「昇降口前へ切り替えてください」
調査員が別の映像を開く。
校舎へと入っていく生徒が何人か映っていたが、その中に開いた黒傘は見当たらない。
校内には、廊下や階段を含めて複数の防犯カメラが設置されているが、実情、校内を移動する生徒たちの姿を切れ目なく追えるわけではない。校門から昇降口までにも、校舎の張り出しや植え込みによって画角の途切れる場所がいくつかあった。
さらに昇降口のカメラは、下駄箱の内側から出入口へ向けて設置されているのだが、入ってくる人間の顔や上半身は確認できても、下駄箱に遮られるため、手に提げた物までは映らない角度だった。
黒傘の生徒が死角へ入ったあと、昇降口前にはほぼ同じ時刻に数人の生徒が現れている。
その間に傘を畳み、身体の脇へ下げてしまえば、次の映像から確認できるのは制服姿の上半身だけ。服装や体格、現れた時刻から候補を絞ることはできても、そのうちの誰が先ほどの生徒なのかまでは断定できなかった。
加え、死角の中には傘を一時的に置ける場所や別棟へ抜ける通路もある。映像がつながらないというだけで、黒傘が消失したと決めつけることもできない。
解決策として、人を立たせて追うにしても、黒傘は現れる場所も時刻も定まらないため、限られた人数で校内各所を常時見張ることはできず、怪異との関連が確かでない生徒を追い回せば、設備調査という名目まで怪しまれかねなかった。
調査員が映像を校門前へと戻し、男子生徒が黒傘を避ける直前で停止させた。
「橘さん、やはりこの黒傘を疑っているのですか?」
「……少なくとも、身体は黒傘の存在を拾っています。完全に見えていないわけじゃありません」
「でも、昨日の二人はどちらも黒傘を覚えていない……そこまで偶然で片づけるか、ですね」
「まだ断定はできません。二件だけでは、記憶に残らなかった理由までは絞れない。同じ例が続けば別ですが」
橘は映像から視線を切り、椅子へ背を預けて小さく息を吐いた。脳裏に浮かんだのは、認識阻害と記憶干渉。
……あるいは、その両方。
現時点ではどちらとも断定できない。都合のいい仮説へと証拠を押し込め始めた時点で、それは調査ではなく願望に成り下がる。だからこそ橘は、同じ映像を三度も見返し、映像から情報を照合している。
「……厄介ですね」
独り言のように呟くと、向かいの調査員が苦笑した。
「まだ黒傘しかヒントは分かってませんからね」
「ある程度、黒傘まで絞れただけまだましです。予備調査へ切り替わる前は、何を探せばいいのかすら分かりませんでした」
淡々とそう返しながら、橘は再び画面へ視線を戻す。
画面には、晴れ渡った六月の朝とぽつぽつと校門をくぐる生徒たちと黒傘を差した生徒が一人。
今のところ、何かが起きたわけではない。ないが、手遅れになってから姿を現す異常ほど、その始まりは拍子抜けするほど些細なものだということを橘は知っていた。
天ヶ原中学校で最初の異常が観測されたのは、今から二週間ほど前のことだった。
福岡市内には、一般人の生活圏へ怪異が干渉した際、その兆候を早期に拾い上げるための観測網が敷かれている。
ただ、怪異の正体や居場所まで特定できるものではなく、人の目には映らない《境》の揺らぎを拾い、「この周辺で何かが起きている」と知らせる地震計のようなものだった。
最初に記録された反応は、警戒基準を大きく下回るほど微弱。ところが三日後、ほぼ同じ地点で似た波形が記録され、さらにその二日後にも繰り返された。
場所はいずれも天ヶ原中学校の敷地内。発生時刻も生徒や教職員が校内にいる時間帯へ偏っていて、境務所が周辺の記録と聞き取りを洗い直した結果、いくつかの奇妙な証言が拾われた。
――曰く、晴れた日に、黒い傘を差した生徒を見た。
――曰く、廊下を歩いていたはずが、気づけば同じ場所へ戻っていた。
――曰く、知っている生徒へ声を掛けようとして、なぜか名前が出てこなかった。
どれも単独なら、日傘や道の取り違え、単なる物忘れとして片づけられる。それでも学年も交友関係も違う複数の人間から似た違和感が出てきたことで、案件は定点観測から予備調査へ切り替えられた。
橘たち三名が、設備安全調査の職員として学校へ入ったのはその翌日で、当然ながら校長室へと乗り込んで「この学校には怪異がいるかもしれません。調査させていただきます」と名乗るわけにはいかない。
怪異の存在を一般社会から秘匿することは、境務所にとって怪異への対処そのものと同じくらい重要な仕事であり、怪異の中には人間から認識されることや噂として広まること自体を成長の足掛かりにするものまで存在する以上、いたずらに恐怖を広げることは事態の悪化へ直結しかねない。
そのため、今回も市の教育関連施設を対象とした設備安全調査という名目が用意され、校長と一部の管理職には必要最低限の事情だけが伝えられた。
それ以来、橘たちは地道な調査として、朝は登校時間より早く学校へ入り、防犯カメラの記録を確認し、日中は設備調査を装って校内を歩き、簡易観測器の数値を教師や生徒がいた場所や時間と照合する。
放課後になれば、校長から設備異常との関連確認という名目で共有された出欠や保健室の記録に目を通し、校内で起きた小さなトラブルまで拾い上げた。
昨日も二時間近く監視映像を見続け、拾えたのは黒傘を避けた生徒の僅かな挙動だけ。それでもその記録があったからこそ、今朝も同じ特徴を見逃さずに済んだ。
同じ退魔師でも怪異を斬ることを主とする現場要員とは役目が違う。橘たち調査班の仕事は、一つの仮説が間違っていると確かめただけで終わることも多い。
それで誰かが誤った手順を踏まずに済むなら十分。怪異を相手にするとき、分からないことよりも、分かっていないことに気づかない方が怖いのだから。
橘は長机へ広げていた校内図へ目を落とした。
紙面には、予備調査を始めてから書き込まれた印がいくつも残っている。
黒傘が映像や証言で確認された場所を示す赤、観測器が通常値から外れた地点を示す青、それから現時点では関連性を判断できず、保留にしている小さな書き込み。そのうち赤い印は、この数日で十一箇所まで増えていた。
どれも決め手には欠けるが、赤い印の近くには青い印も残されていおり、無関係と切り捨てるには重なる場所が多すぎた。
「橘さん」
向かいにいた調査員が、今朝の映像を止めたまま顔を上げる。
「昨日までの黒傘の位置、今朝の分と重ねますか?」
「時間も入れてください。目撃順に並べ直します」
「了解です」
返事を聞きながら、橘は赤ペンを手に取り、今朝黒傘が通った校門前へ新しい印を書き加え、その脇へ映像に残っていた時刻を書き込んだ。
これで十二箇所。いや、まだ十二箇所とも言えるか。
どちらと捉えるべきかを決めるには、依然として材料が足りなかった。
橘はペン先を紙から離し、そこに散らばった赤と青の印をしばらく眺める。
今のところ、人が襲われたという報告はない。行方不明者も確認できず、学校生活そのものも表向きは昨日までと何一つ変わらず続いている。
ならば今やるべきことは答えを急ぐことではなく、この点と点の間に何があるのか、それを一つずつ確かめていくことだった。




