壱話::晴天に傘
1話目になります。
3日に2話を投稿予定です。
同じ時間帯になると思いますのでよろしくお願いします。
その日は、俺史上でも堂々のベストスリーに入るほど、気持ちよく目が覚めた。
意識が覚醒したのは、故障続きのスマートフォンが珍しく時刻どおりにアラームを鳴らす、その三分前のこと。
レム睡眠とノンレム睡眠の周期がいい感じに噛み合ったか、充足感が万能感を背負ってきて、朝の滑り出しとしては十二分。
そのうえ、起床から支度まで我ながら惚れ惚れするほどスムーズに事が運んだもんだから、今日はなかなか良い一日になるのではないか――そんな漠然とした期待まで湧いてくるのも無理からぬこと。
もちろん、朝のコンディションと一日の総合成績に相関があるなどという話は聞いたことがない。
今にして思えば、朝の滑り出しが良かった程度で、その日一日も万事順調にいくと期待したのはいささか早計だったわけだが。
◇⚡︎◇
六月上旬の朝は、晴れていても空気のどこかに雨の気配がわずかに漂っているものだ。
住宅街を抜ける歩道の水溜まりにも、道脇を流れる細い水路にも、塀際の草木に残った雫にも、昨夜の雨の名残がある。
俺が通う天ヶ原中学校は、自宅のマンションから徒歩で十五分ほど。
交差点を一つ越えた辺りから同じ制服が目立ち始め、いつの間にか校門へ向かう生徒の流れができる。たぶん、どこの学校も似たようなものだろう。
友人同士でわちゃわちゃと横一列に歩く集団もいれば、自転車を押しながら眠そうに欠伸をしている者もいて、俺のようにソロプレイで登校している生徒も散見される。
そんな生徒の流れに混じって歩いていると、少し前を、黒い傘を差した一人の男子生徒が歩いていた。
明るい朝の景色の中でその黒だけが少し浮いて見える。
なぜ黒い傘を差しているのかと空を見上げてみると、空が今にも泣き出す気配は欠片もない。
雨傘ではなく、この日差しを遮るための日傘と考える方が妥当だろう。
黒い傘自体はごくありふれたもので、昨今では美容に気を遣う男子生徒も珍しくない。
正味、日傘くらいどこの誰が差していようと、別段驚くこともない。
そう結論づければ、それ以上気にする理由もなかった。
見知らぬ生徒の持ち物について朝から思考を巡らせたところで、こちらに何か得があるわけでもない。俺はそのまま歩調を上げ、男子生徒の脇を通り抜けようとした。
その瞬間、前を行く男子生徒が俺の進路へ重なるようにわずかに寄った。傘の縁が頭上へかかりそうになり、俺の足も無意識に二、三歩ぶん外側へ逸れる。
自分でも意識しないうちに、傘の縁が触れない程度の距離を取っていたらしい。体格に対して少し大きな傘だったのだから、避けるのは自然なことだろう。わざわざ気に留めるほどでもなく、そのまま男子生徒を追い越し、校門をくぐる。
昇降口で上履きへ履き替える頃には、黒い傘に抱いた小さな疑問も、梅雨晴れの空を渡ってきた風にさらわれ、いつの間にか頭の中から消えていた。
◇⚡︎◇
二年三組の教室は、朝からいつも通りの賑わいに満ちていた。
ホームルームまではまだ十分ほどあり、教室の前方では男子数人が昨夜のサッカーについて身振りを交えながら盛り上がり、廊下側では提出期限の迫った課題を机の上に広げて答えを見比べている。
窓際では女子たちが誰かの持ってきた新商品の菓子を囲み、甘すぎるだの、前の味の方がよかっただのと好き勝手な品評会を始めていた。
そんな人の間を抜け、自分の席へ鞄を置く。
俺の席は教室の後方、窓から二列目。黒板は問題なく見えるし、教師から遠すぎて声が聞き取りにくいこともない。窓際ほど夏の日差しをまともに受けるわけでもなく、廊下側ほど人の出入りが気になることもない。可もなく不可もない――いや、学校生活における居住性という意味では、なかなか悪くないポジションだと自負している。
「だから私に見せても意味ないって。最後の問題、私も分かんなかったもん」
席へ腰を下ろしかけたところで、少し離れた場所から、教室のざわめきによく通る声が届いた。
声の主は水城琴音という女子生徒で、朝から何人かに囲まれているあたり、今日もクラスのムードメーカーぶりを存分に発揮しておられる。
「じゃあ途中まででいいから!」
「途中まで丸写しして最後だけ自力で間違えたら、むしろ先生に一番バレるやつじゃん」
「そこを友情で何とか」
「友情って宿題代行サービスだったっけ?」
水城が呆れたように笑えば、救済を求めていた男子だけでなく、周囲にいた何人かまでつられるように笑う。どうやら数学の宿題を忘れたらしいが、本人が反省している様子は薄く、もはや宿題を完成させることより、水城を巻き込むことそのものを楽しんでいるようにも見えた。
「琴音、ちょっとこれ見て。昨日、自分で前髪切ったら終わった」
そこへ今度は、横から女子が割り込んでくる。さっきまで宿題の話をしていた水城は、切り替えに一秒も要さずその前髪へ目を向けた。
「終わってない、終わってない。普通だよ。言われなかったら分かんないって」
「ほんと?」
「ほんとほんと。最悪、今日一日ずっと強風だったことにすればいいって。強風オールバック的な」
「うちその歌好きだわ〜」
「自然災害なら誰も責められないっしょ」
かなり強引な理屈だと思うが、本人が真顔で言うものだから、前髪を気にしていた女子も結局吹き出してしまう。
さらに近くを通った男子から「水城、昨日借りたノートどこだっけ」と声を掛けられれば、「机の中。勝手に取っていいよ」と即座に返し、少し離れたところで話の輪へ入るきっかけを失っていた女子を見つければ、「美咲も聞いてよ、こいつ宿題やってないくせに友情でどうにかしようとしてる」と、ごく自然に会話へ引き込んでいく。
改めて眺めてみると、大したものだと感心せざるを得ない。
水城は特定の誰かとだけ親しいわけではなく、男子にも女子にも同じように声を掛ける。話題が途切れそうになれば別のものを拾い、輪に入り損ねた人間がいれば、ごく自然に名前を呼んで引き込んでいた。
対して俺は、必要なことを伝えたり、聞かれたことへ答えたりする分には困らないものの、目的のない雑談となると途端に難易度が上がる。
同じ教室に優れた実例がいるのだから、参考にしない手はない。我以外皆我師――誰の言葉だったかまでは覚えていないが、他人の長所から学べという意味なら、今の俺にも当てはまるだろう。
では、水城と俺とでは何が違うのか。
相手の名前をよく呼ぶこと。返事を考え込むような間がほとんどないこと。そして何より、水城はよく笑う。面白ければ声を弾ませ、呆れればそれがそのまま顔に出る。その反応が分かりやすいからこそ、話しかける側も妙に構えずに済むのだろう。
……なるほど、笑顔か。
会話の引き出しを今すぐ増やすのは難しいが、笑うだけなら俺にもできる。
習うより慣れろともいう。機会があれば実践するのもやぶさかでない。
そう結論づけたところで教室の扉が開き、担任が出席簿を片手に入ってきたため、俺も水城たちから視線を外して前へ向き直った。
◇⚡︎◇
三限までは、特にこれといった問題もなく過ぎていった。
一限の国語から始まり、数学、理科と続き、三限が終わる頃には、窓から差し込む日差しも朝より随分と強くなっていた。
休み時間になると生徒たちは一斉に席を立ち、次の授業の教室へ向かう者や友人の席へ移動する者で廊下まで賑やかになった。
俺も飲み物を買うため教室を出て、一階の自動販売機へ向かった。階段に差しかかったところで、窓際の壁に沿うように、大きな黒い傘が一本、開いたまま置かれているのが目に入った。
誰かが足を引っかければ危ないし、下手をすれば傘の骨も曲がるだろう。
そう思って、畳んで端へ寄せようと一度足を緩めたものの、持ち主の分からない物を勝手に触るのは、それはそれでよろしくない。
触らぬ神に祟りなしという言葉もある。
傘を神と同列に扱うのは少々大袈裟だが、所有者不明の物へ不用意に手を出さないという一点に限れば、先人の知恵は今回も有効だ。
傘を避けて行き交う生徒たちの流れを、立ち止まった俺まで塞いでは本末転倒である。
それにしても、誰一人として傘へ文句を言わないのは少し不思議だった。友人と話しながら歩いてきた生徒も、傘の縁へ近づく直前になると自然に進路を変えるだけで、足元へ視線を落とそうともしない。
日頃から廊下の障害物を避けることへ慣れているのだろうか。
器用なものだと感心しながら、俺もそのまま階段を下り、我ながら所有者への配慮に満ちた判断だったと、ささやかな満足感に浸りながら自動販売機で茶を一本購入した。
数分後、同じ道を戻ってくると、先ほどまで場所を取っていた黒傘は跡形もなく消えていた。
無事に持ち主が回収していってくれたようだ。
結果オーライではあるが、余計な手出しをしなかった俺の判断は間違いではなかったのだろう。
◇⚡︎◇
昼休みを迎えた二年三組の教室は、朝とはまた違った騒がしさに包まれていた。
机を寄せて弁当箱を広げる者がいる一方で、購買へ向かうため廊下へ飛び出していく者もおり、あちこちから弁当の匂いとパンの袋を開ける音が入り混じる。
俺は自分の席で買っておいたパンを二つと牛乳を机へ並べ、そのうち片方の袋を開ける。
少し離れたところでは、水城を中心に何人かが机を寄せていた。
「今日、部活ある?」
「あるよ。絶対体育館暑いって」
「うわ、かわいそ」
「同情しているように見えて、その心笑ってるね?」
「わたし、文化部。室内、涼しい」
「なんで片言? ていうか、揃いも揃ってこの裏切り者め〜」
そんなたわいもない会話の途中で、窓際にいた女子がふいに箸を止め、おもむろに外へ目を向けた。
「昨日みたいに、帰りだけ雨降ったりするかなぁ」
つられて何人かが窓を見るが、朝から続く青空には雨雲どころか大きな雲すら見当たらない。
「いやいや、今日の空模様を見なよ。この快晴、降らないでしょ」
「私、一応折り畳み持ってきたけど」
水城が自分の鞄を軽く叩くと、すぐ隣にいた女子が鼻で笑った。
「十パーセントだよ?」
「十パーセントでも降るときは降るって。リスク管理は意外と大事だぜ?」
用心深い水城と違い、俺は九十パーセントの晴れを信用して傘を持たずに来たが、どちらが正しかったのかは、放課後になれば空が結果を出してくれるだろう。
「水城」
そんなやり取りの最中、教室の入口から担任の声が飛んできた。
「はーい?」
「悪いがこれを資料室まで持っていってくれるか」
担任は薄いファイルを何冊か抱えていた。
「えー、なんで私なんですかー」
「決まってるだろ。一番暇そうだったからだ」
「暇そうって……先生って時々すっごく理不尽なこと平気でいいますよねー」
「そんなに褒めても内申点はあげられんぞ?」
「いやいや、一つも褒めてないですから」
口では文句を言いながらも、すでに昼食を終えていた水城は鞄を席に残したまま軽快に立ち上がり、担任からファイルを受け取った。
「琴音、あんた方向音痴だから迷子にならんようにな〜」
「誰が校内で迷子になどなるか!」
友人たちの冷やかし――もとい、愛のある激励を背に水城が教室を出ていった。
俺もその背中を何とはなしに見送ったが、当然、この時点では特に気に留める理由もなく、すぐに手元へ意識を戻した。
さて。今朝の登校途中、コンビニで物珍しさにつられて衝動買いした『ランダムパン』を開封しようではないか。
俺が狙っているのは、ラインナップに燦然と名を連ねる『猛獣の香草焼き風』である。
攻めたネーミングセンスに加え、そもそも猛獣とは何の肉を指しているのか皆目見当がつかないが、だからこそ食してみたかった。
いざ、勝負――
「ガッデム……」
どうやら、今朝から俺を包んでいた幸運の加護も、この勝負までは面倒を見てくれなかったらしい。
全十二種類の中から出てきたのは、ごく普通のチョコクリームパン。
まあ、人生とは往々にしてこういうものである。目当てを外した程度でいちいち悲観していても仕方あるまい。今回駄目なら次がある。ネバーギブアップ。人生いつでもチャレンジャー。
そう自分に言い聞かせながら、放課後、帰宅途中に再チャレンジすることを胸に誓い、ごく普通のチョコクリームパンに齧り付いた。
◇⚡︎◇
五限目の開始を告げる予鈴が鳴る少し前、水城は教室へ戻ってきた。
「お、姫が帰ってこられた」
扉が開いた音に気づいた友人の一人が、水城へ気安く声を掛ける。
水城はほんの一拍置いてからそちらを向き、小さく口元を緩めた。
「……ただいま」
「遅かったじゃん。何してたん?」
「そう?」
「資料置くだけでしょ?」
「うん」
「あっ、まさか本気で迷子になってたとか」
「……普通に置いてきただけだよ」
水城は友人の茶々にそれ以上付き合うことはせず、自分の席へ戻って椅子を引いて腰を下ろした。
「琴音、なんか疲れてね?」
朝から昼休みまで絶えず誰かと話していた水城にしては少し静かだったのだろう。友人の一人が隣から顔を覗き込んだ。
「……そう?」
「いや、なんか、テン下げじゃねぇ?」
「……そうかなー」
言われてみれば、朝に見た笑顔よりもどこか控えめで、返事にもほんの少し間がある。
彼女と付き合いの長い友人は、「ならいいけど」と頷き、それ以上追及することはなかった。
そもそも人間には、その日の気分や調子というものがある。朝から晩まで機嫌も体調も一定である方がむしろ珍しいのだから、少し静かになった程度で、いちいち大きな意味を求めていてはきりがない。
やがて教師が教室へ入り、号令とともに昼休みの空気が授業のものへ切り替わる。俺もノートを開き、五限目の準備を整えた。
教師が黒板へ向き直ると、教室のざわめきに代わってチョークの乾いた音が響き始めた。
日付を書こうとしてペン先をノートへ落としかけたところで、ふと視界の端に黒いものが引っかかった。
「……」
水城の机の脇に、大きな黒傘が一本立てかけられていた。
昼休み、水城は折り畳み傘を持ってきたと言って、自分の鞄を叩いていた。少なくとも、目の前にある長い傘とは別物だろう。資料室へ向かう途中で誰かから預かったのか、あるいは何か事情があったのかもしれない。
そういえば、三限後に廊下で見かけた黒傘も、あれくらいの大きさだった気がする。
もし水城のものだと分かっていれば、あのとき畳んで届けていた。そうすれば、コミュニケーションの秘訣を聞くきっかけくらいにはなったかもしれない。
……惜しいことをした。
そう結論づけてノートへ視線を戻しかけたところで、ふと気づく。
水城の周囲にいる友人たちは、誰一人として、その黒傘がいつ現れたのか尋ねていなかった。
水城自身も、まるで最初からそこに何もないように、一度も傘へ目を向けていない。
窓の外では、そんな俺の心境とは対照的に、朝から一度も崩れることのなかった青空がどこまでも明るく澄んでいた。
少なくとも、雨が降りそうな気配など、どこにもなかった。




