零話:天つ雷鳴、産声を上げし日
こんにちは、天瀬透と申します。
今回は、現代日本を舞台にした「怪異×異能バトル」の物語です。どうぞ楽しんでいただけましたら幸いです。
では――現代ファンタジーの世界へ、行っておいでませ。
その日、日本列島を覆っていた空は朝を迎えてなお、夜の名残を捨てきれずにいるような重く沈んだ色をしていたという。
夜明け前から各地で降り始めていた雨は、日の出とともに弱まるどころか時間を追うごとに勢いを増し、午前九時を過ぎる頃には東北から九州に至る広い地域で激しい雨が観測された。
低く垂れ込めた雲は幾重にも重なり、都市部では高層建築の上層階さえ水煙の向こうへ霞み、普段ならば地域ごとに異なっているはずの天候までもがこの日ばかりは日本列島を覆う巨大な暗雲の下で示し合わせたように荒れていた。
沿岸部では防波堤へ打ちつけた波が道路まで飛沫を運び、都市部では排水能力を超えた雨水が車道へ溢れ、山間部においては雨を含んだ斜面が各地で崩れ、河川は急速に水位を上げ、消防や自治体から避難を呼びかける情報が絶え間なく発信される。
鉄道各社も風速や雨量が規制値を超えた区間から順に運転を見合わせ、高速道路では複数の区間が通行止めとなり、空港の電光掲示板には欠航や大幅な遅延を知らせる表示が並んだ。
昼を迎える頃には倒木や落雷による停電に加え、一部では通信障害まで発生し始め、復旧作業へ向かおうにも道路そのものが冠水して近づけず、駅や避難所では家族と連絡を取ろうと何度も携帯電話の画面を更新する人々の姿が目立つようになっていく。
大型台風や記録的豪雨であれば、日本にも過去の経験がある。
交通網が一斉に麻痺していく光景は人々にとって完全に未知のものというわけではない。気象機関や自治体も、そうした災害へ備えるため長い時間をかけて知識と経験を積み重ねてきた。
それでも、この日の空には、既知の言葉だけでは説明しきれない異様さがあった。
日本列島を襲った異常の中で最も人々の理解を拒んでいたのは、猛烈な風でも記録的な降水量でもない。
――雷だった。
列島を覆い尽くす分厚い曇天の至るところで稲光が絶え間なく天を引き裂き、昼夜の境すら白く塗り潰す。そのたびに雷鳴が幾重にも重なり、まるで空そのものが狂ったように咆哮を上げ続けていた。
朝から全国各地で観測されていた落雷は正午を過ぎても衰える兆しを見せず、それどころか時間を追うごとに発生頻度は増した。
ある場所で空が白く光った直後、まだ雷鳴さえ届かないうちに何十キロと離れた別の場所で、新たな稲光が走るという現象が繰り返されていた。
遠くで鳴った雷が低い唸りを残して消えていくより早く、今度は頭上近くで乾いた破裂音が響き、その余韻にさらに別方向からの轟音が重なる。
その光景は特定の雷雲だけが活発になっているというより、日本列島を覆う巨大な雲そのものが絶えず放電を繰り返しているようで、地域によっては数十分ものあいだ雷鳴が完全に途切れない状態さえ続いていた。
「天変地異」という言葉を想起させる自然の猛威を前に、インターネット上には各地から撮影された映像が次々と投稿され、昼間であるにもかかわらず空一面が青白く瞬く様子や一つの雲から複数の稲妻が枝分かれして伸びる光景が瞬く間に拡散した。
最初こそ、一生に一度目にできるかどうかも分からない稀有な天候に興奮する声も多かったが、「空がずっと鳴っている」、「どこから雷が聞こえているのか分からない」、「朝から一度もまともに静かになっていない」、「雷に子供が怯え、泣き止まなくて困っている」といった報告が日本各地から途切れることなく何時間も相次ぐにつれ、画面の向こうで面白半分に空を撮影していた人々からも次第に冗談めいた調子が消えていった。
午後二時を回る頃には、民放各局も予定されていた番組の多くを中断し、全国の被害状況を伝える報道特別番組へ切り替えはじめた。
『現在、日本の広い範囲で非常に激しい雨が続いており、河川の増水や氾濫、低い土地への浸水、土砂災害の危険性が急速に高まっています。すでに避難情報が出されている地域では、自治体からの情報を確認し、危険が迫る前に安全な場所へ移動してください』
東京都内の放送局では女性アナウンサーが正面のカメラへ向かい、普段より幾ばくかゆっくりとした口調で注意を呼びかけていた。
その背後に設置された大型モニターには日本列島の気象情報が映され、警戒を示す色が北海道の一部から九州まで広がって見えた。
『そして、今回の荒天でもう一つ、非常に特徴的なのが雷です。現在、東北から九州まで広い範囲で積乱雲が発達しており、特に九州北部では正午頃から落雷数が急増しています』
画面が切り替わると、日本列島の上に落雷地点を示す無数の印が重ねられ、それは一部の地域だけに集中しているのではなく、列島の形をなぞるように広範囲へ散らばり、時間の経過とともに新しい反応が次々と重なっていく。
隣に座る気象解説員も、モニターへ目を向けながら慎重に言葉を選んだ。
『現在の雨雲の状態から雷そのものが発生することは不自然ではありません。ただ、これだけ広い地域で長時間にわたり、活発な状態が続くのはかなり珍しいと言えます。特に福岡周辺では非常に強い反応が集中していますので、屋外にいる方は速やかに丈夫な建物の中へ避難してください』
『その福岡市内から中継が繋がっています。山下アナ、聞こえますか』
映像が切り替わった瞬間、静かなスタジオとはまるで異なる騒音がテレビのスピーカーから溢れ出した。
福岡市中央部。その大通りに面した建物の深い軒下に、ヘルメットとレインウェアを身につけた男性リポーターが立っていた。
庇の奥まで入り込んでいるにもかかわらず、横から吹きつける雨を防ぎきれず、肩から胸元まで濡れた跡が広がっている。
背後の道路では車が速度を大きく落として進み、タイヤが水を掻き分けるたびに大量の飛沫が上がり、そのさらに向こうでは街路樹が強風に押されて大きく傾いていた。
『はい、聞こえています! こちら福岡市中央部です! ご覧いただいている通り、正午を過ぎた頃から雨と風が一段と強くなっており、現在は安全が確認された建物の軒下からお伝えしていますが、それでもここまで雨が吹き込んでくる状態です!』
頭上の庇を激しく叩く雨音と風の唸りに負けないよう、リポーターが普段より明らかに声を張っているのは、スタジオでイヤホン越しに耳を傾けているアナウンサーにも、お茶の間でその様子を見守っている人たちにも言葉にされるまでもなくわかった。
『市内の一部では停電や信号機の停止も発生しており、鉄道も複数の路線で運転を見合わせています。現在――』
その言葉の途中で、不意に映像が真っ白に飛んだ。
時間にして二、三秒――カメラが明るさを取り戻したときには、リポーターだけでなく画面の端にいたスタッフまで反射的に空を見上げていた。
そのさらに数秒遅れるかたちで建物の間を縫うように低い轟音が押し寄せ、最後には何か巨大なものが破裂したような衝撃音まで重なって、マイクが一瞬だけ不気味に音を歪ませる。
リポーターは言葉を止め、ほんのわずかに呼吸を整えてからカメラへ向き直った。
『……今も、かなり近いところで雷が落ちました。こちらへ到着して四十分ほどになりますが、そのあいだ雷鳴がほとんど途切れていません。ひとつ鳴り終わるより先に別の方向で光ることも多く、現場にいる感覚としては一つの雷雲が通過しているというより……空全体から音がしているような状態です』
『山下さん、今の雷もかなり近く聞こえたように感じましたが、中継を続けても問題ありませんか?』
『――はい。我々としましても安全を考慮し、すぐに屋内へ退避できる場所から中継をしております。現在、中継にご協力いただき、場所を提供してくださっている施設側とも連携を取りながら、安全第一でお伝えしております。……ただ、これ以上状況が悪化した場合は命には代えられません。私としましても断腸の思いではありますが、中継を切り上げ、避難を優先いたします』
『山下さん、どうか、無理だけはしないでください』
『ありがとうございます。それとこちらで住民の方へ話を伺っていて、雨以上に多く聞かれるのがこの雷についての声なんです。「朝からずっと鳴っている」、「こんなものは経験したことがない」という驚きと不気味さを滲ませる声が非常に多く、私自身もこれまで福岡で台風や豪雨の取材をしてきましたが、ここまで長時間、ほとんど絶え間なく雷が続く状況は初めてです』
その最中にも遠くの雲の内側で青白い光が広がり、最初の閃光が消えるより早く別の筋が走った。
厚い雲のせいで夕刻のように暗く沈んだ街並みが、そのたび一瞬だけ昼間のような輪郭を取り戻し、やがて近いものと遠いものが幾重にも重なった雷鳴が福岡の上空を長く転がっていく。
男性リポーターは、しばらくその空を見上げ、ぽつりと言葉を漏らした。
『……本当に、すごい嵐です』
それはごくありふれた言葉だった。けれど、数字や観測情報を交えながら状況を説明してきた人間が最後にそれしか言えなかったという事実が、かえって中継を見ていたすべての人たちにこの嵐の異常さを強く印象づける結果となった。
◇⚡︎◇
午後七時を回る頃には、昼間の中継で「すごい嵐です」と評された福岡市内の状況は、まだ序の口だと思えるほど悪化の一途を辿っていた。
本来ならば、無数の灯りで夜を迎えるはずの街は相次ぐ落雷による停電でところどころが不自然な暗闇に沈み、信号機を失った交差点には、豪雨に打たれながら交通整理に奔走する警察官の姿があった。
冠水の進んだ道路を走る消防車や救急車は速度を落とし、赤色灯を雨粒に滲ませながら水飛沫を左右へ押し退けて進んでいた。
そんな福岡の一角に、白い外壁をした四階建ての小さな産婦人科病院がぽつりと建っていた。
地域では長く産科を営んできた病院として知られ、普段であれば夜になるにつれて人の往来も落ち着き、廊下には新生児室から聞こえる赤ん坊の元気な泣き声と看護師の忙しない足音が時折響く程度だった。
しかし、今夜ばかりはそうもいかず、度重なる落雷の影響で院内は一度停電に見舞われ、現在は非常用電源によって必要な電力を確保していた。
必要な設備は問題なく動いている。それでも通常より照明を落とした廊下はどこか心許ない。
窓の外が雷光に照らされるたび白い壁には窓枠の影が濃く浮かび上がり、風向きが変われば大量の雨が壁や窓へ叩きつけられる。
新生児室では大きな雷鳴が響くたび、驚いた赤ん坊たちの泣き声が連鎖するように重なった。
その建物の二階にある分娩室では、今まさに一人の妊婦が出産の時を迎えようとしていた。
分娩室の端には、妊婦たっての希望でつけられたテレビがあり、市内から中継する男性リポーターの姿が映し出されている。
医師はその中継映像を一瞥したあと、落ち着いた声色を意識しながら妊婦へと声をかけた。
「大丈夫ですよ。赤ちゃんも頑張っていますからね。焦らず、呼吸を合わせていきましょう」
ひだまりのような暖かみを感じさせる医師の声を聞きながら、妊婦は額に張りついた髪もそのままに、荒くなりそうな呼吸を必死に整え、陣痛が強まるたびにシーツを掴む手に力が入る。その間隔が短くなるにつれ、医師と看護師たちの動きにも自然と緊張が増していった。
「ゆっくり吸ってください。そうですよ、次はそのまま吐いて〜、上手です、その調子で続けましょう」
呼吸を合わせて声をかけていた看護師の視線が、ブラインド越しに幾度となく閃く光へと一瞬だけ向けられる。そしてその直後には、地面の底から突き上げるような轟音が分娩室を震わせた。
「今のは近いですね……」
呟いたというよりは思わず漏れた声に、医師は手を止めることなく答えた。
「ええ、ですが、外は病院に任せましょう。我々が集中すべきはこっちです」
「……はい」
優しくたしなめられた看護師の意識はすぐに妊婦へと向けられる。
眼前では、お産を迎えた妊婦が今も戦っている以上、日本中でどれほど大きな災害が起きていようがこの部屋にいる者たちにとって、今、最も重要なものは目の前にいる母親とこれから生まれようとしている子供である。この場所に立つ以上、それ以外は些事であり、些事でなければならない。
「もう少しですよ。もう少しで、元気な赤ちゃんに会えますよ。今は大変ですがきっと大丈夫です」
看護師の慈愛に満ちた呼び掛けに、妊婦は苦しげながらも口元に笑みを浮かべて息を吐きながら頷き、看護師の手を借りてもう一度呼吸を整える。
妊婦の頑張りに呼応するように、外では今までとは一線を画す雷鳴が鳴り響いては遠ざかり、新しい閃光が走る。
福岡中を無秩序に荒れ狂っていた無数の雷が、時間を追うごとにどこか一点へ集まり始めているように、短い間隔で白い光を明滅させていた。
「次、来ますよ。大きく息を吸って――はいっ、そのまま力を入れてください!!」
看護師の呼び掛けに応えた女性がシーツを掴み直し、医師と看護師たちがそれぞれの位置で動く。
陣痛が来るたびに呼吸を整える呼び掛け。もう一度と、もう一度と繰り返すうち、それまで長く続いていた時間が少しずつ一点へ収束していった。
「見えてきましたよ。赤ちゃんの頭が見えています」
看護師の声に反応した妊婦の眉間に刻まれていた深い皺が緩み、細く目が開く。
「……ほん、と……?」
「はいっ、あと少しです、もうすぐ会えます!」
その言葉を聞いた妊婦の表情に、苦しさとは別の感情がわずかに浮かんだ。
外では道路が冠水し、電車が止まり、多くの人々が避難している。
空では信じられない数の雷が轟き、テレビ中継では、現状の異常さを伝える男性リポーターの声が今も分娩室内に木霊している。
世界が狂い始め、人々が未知の恐怖を前に慄き、幾千幾万という不安がネットで呟かれる中であっても、『長い時間、自分の中で育ってきた命にもうすぐ会える』という希望だけが妊婦のすべてだった。
「次で、いきましょう」
医師が告げた一言に、看護師、そして妊婦が覚悟を決めた、その直後。
それまで轟いていた音が、嘘のように消え――。
看護師の手を妊婦がぎゅっと握り返し、腹部に力を入れた――それと同時に、窓の向こうがそれまでとは比較にならないほど強い光に包まれた。
「――」
閉じたブラインド越しでさえ反射的に目を細めてしまうほどの閃光。時間にして約五秒にも及ぶ壮絶な瞬き。おそらくその日、過去最大規模の雷鳴がお産の佳境を迎えたその瞬間と重なった。
そして――轟音が落ちた。
それは後に、聞こえたというより衝撃そのものが地球を揺らしたと口々に囁かれた。
実際、分娩室の窓ガラスが激しく震え、暖色の蛍光灯は一瞬だけ明滅し、福岡の夜を満たしていたあらゆる音を一息に呑み込んだ。
「生まれました!」
過去最大規模の雷鳴が病院の壁に長い余韻を残すのと、医師の声が上がったのはほとんど同時だった。
生まれたばかりの小さな身体を受け止めた医師が状態を確かめ、その傍らで看護師が素早く動く。
しかし看護師は、取り上げられた赤ん坊がほんの一瞬だけ声を上げなかったことに違和感を覚え、室内の空気が再び張り詰めかける。
「先生、赤ちゃんが――」
その直後、青白い閃光が分娩室を照らし、耳をつんざくような轟音が看護師の鼓膜を震わせた。
その迫力に、看護師だけではなく、その場にいた全員が注意を奪われ――小さな命の律動が再開された。
「――ぁ、ぁあああっ!」
その産声は先ほど街を震わせた雷鳴と比べれば、あまりにも小さな音で、窓を揺らすこともなければ、離れた場所まで届くこともない。
ただ生まれたばかりの赤ん坊が初めて肺へ空気を取り込み、自分がこの世界へやって来たことを知らせるため、精いっぱい泣いているだけの声だった。
それなのに、その場にいた者たちにはその小さな声だけが不思議なほど鮮明に、そして何よりも力強く聞こえた。
「元気な、男の子ですよ」
医師の声音から緊張がほどけ、必要な処置を進めていた看護師も安堵したように表情を緩める。
「本当に、よく頑張りましたね」
口々に告げられる言葉に、妊婦はすぐには答えられず、疲労の滲んだ顔を横へ向けて、抱き上げられた小さな身体を見つめていた。
やがて気力を振り絞って産んだ赤ん坊がそばへ運ばれてくると、妊婦は震える指先を恐る恐る伸ばし、その小さな手へ触れる。
触れた途端、赤ん坊の指が反射的に母親の指を握り込んだ。
大人なら簡単にほどけてしまう程度の弱々しい力。それでも女性は驚いたように目を見開き、やがて目尻に涙を浮かべたまま笑った。
「……よかった。生まれてきてくれて……よかった……」
その言葉の意味など生まれたばかりの赤ん坊に分かるはずもない。その言葉に宿る惜しみない母の愛も理解できていないかもしれない。
自分が生まれた日、日本列島が未曾有の嵐に襲われていることも、交通網が麻痺し、大勢の人々が不安そうに夜空を見上げていることも。
そして、たった今、自分の産声と重なるように福岡の空を揺るがした雷がどれほど異常なものだったのかも。
まして、自分の誕生を何百年という時間の果てに待ち続けている者たちが、この世のどこかにいることなど、知る由もなかった。
日本が未曾有の嵐に晒されたその日、このとき病院で生まれた男の子は誰が見ても普通の赤ん坊だった。
生まれた瞬間から不思議な力を見せたわけでもなければ、瞳に奇妙な光が宿っていたわけでもない。ただ泣き、母親の指を握り、やがて疲れたように少しずつ声を弱めていく。
後に、葛城朔夜と名付けられる赤ん坊は、少なくともこの場にいた医師や看護師、母親の目には、それ以上でもそれ以下でもない、一人の尊い赤ん坊にしか見えなかった。
だからこそ、彼らはすぐには気づかなかった。
その産声が上がってから、先ほどまで福岡中の空を埋め尽くすように鳴り続けていた雷が、ただの一度も鳴っていないことに。
◇⚡︎◇
福岡市内の産婦人科で一人の赤ん坊が生まれ、朝から途切れることのなかった雷鳴が不意に沈黙したのと、ほとんど同じ頃。
市街地から遠く離れ、幾重にも重なる山々の奥にある鳴神郷でもまた、誰も経験したことのない異変が起きていた。
谷あいに築かれた郷では昼から猛烈な雨が続き、増水した鳴瀬川は普段の穏やかな姿からは想像できないほど荒々しい濁流となり、山肌から吹き下ろす風が杉の梢を大きく撓ませている。山間の土地である以上、豪雨や落雷そのものは珍しくないため、郷の者たちは早くから川沿いや斜面の警戒、倒木や浸水への備えを進めていた。
しかし、その一方で、普段なら限られた者しか立ち入らない郷の最奥には、午後から鳴神一門の重立った者たちが集められていた。
彼らが見守っていたのは、荒れ狂う天候そのものではない。
鳴滝を越え、深い杉林のさらに奥へ入った場所にある《雷座》だった。
外から見れば、そこは長い年月を経た古い祭祀施設と大差ない。傷んだ箇所は幾度も補修され、現代に入ってからは観測用の機器や配線も増設されているが、その中心だけは歴代の者たちが不用意に形を変えようとはしなかった。
最後に《雷座》が明確な反応を示したとされる記録はおよそ四百年前まで遡る。
それ以降、「戻った」と断言できるほどの出来事は一度として起きていない。
それでも鳴神一門はこの場所から離れることはなかった。
百年待って何も起こらず、その次の百年にも何も起こらない。待っていた人間が老いて死ねば、まだ見ぬ次の世代へ記録と役目を残し、その子供たちもまた自分の生涯では何も目にすることがないまま、さらに次へと引き継いだ。
本当に戻る日など来るのかと疑った者もいただろうし、古い記録に残された話など過去の伝承に過ぎないと思った者もいたかもしれない。それでも、疑うことと途絶えさせることは別だとばかりに、《雷座》を維持し、記録を写し、観測を続け、その役目だけは四百年近く絶やすことなく繋いできた。
そんな場所が、今日の午後から雷鳴に呼応するように反応を示していた。
「《雷座》周辺の反応、また上がりました。先ほどより明確です」
古い木造の観測棟で端末を確認していた男が告げると、周囲の視線が集まった。
「……機器の異常ではないんだな」
「予備機でも反応を示しており、落雷による電気的な影響は切り分けています。それでも、福岡周辺で大きな雷が鳴るたびに《雷座》側の反応が強まっています」
「過去の記録とは?」
「典籍を調べさせています。ただ、最も近いものでも三百年以上前です。当時と現在では記録の方法そのものが違いますから、単純な比較はできません」
報告を受けても誰一人として歓声を上げなかった。いや、むしろ、目の前で起きている異変が自分たちの待ち続けてきたものへ近づくほど、室内には息苦しいほどの緊張が広がっていった。
四百年待ったものが今日戻ったのだと信じたい気持ちは誰にでもある。だからこそ、願望を事実と取り違え、目の前の異変に安易な名前を与えることだけは避けなければならない。
「九重側の状況は?」
「すでに本邸へと。紫苑様も母君と一緒です」
その名を聞き、何人かがわずかに表情を変えた。
鳴神一門とは別に家を保ちながら、遥かな昔から《雷座》と深い縁を持ち続けてきた九重家。
その家に一年前に生まれた九重紫苑という幼子も、一部ではすでに注意深く見守られており、今夜この場所で何が起ころうとも一歳の少女がその意味を理解できるはずがないというのが大人たちの共通認識だった。
やがて山々の向こうでそれまでにも増して強烈な稲光が走り、分厚い雲に閉ざされていた夜空から濡れた杉林、石段、《雷座》を囲む建物までが一瞬だけ白く浮かび上がった。
遅れて届いた雷鳴は、まるで谷そのものが巨大な器となって打ち鳴らされたかのように長く反響し、窓ガラスを震わせながら幾重もの山の向こうへ消えていく。
その後のことだった。
「……次が、来ない?」
誰かがそう漏らして初めて、周囲の者たちも同じことに気づいた。
雨は変わらず屋根や地面を叩き、増水した鳴瀬川は遠くで地響きのような轟音を立て、強風に煽られた杉林も絶え間なくざわめいている。自然の音は何ひとつ消えていない。それなのに、今日という一日の背景としてあまりにも長く存在し続けた雷鳴だけが忽然と失われていた。
ひとつの雷が消えれば、すぐに次が鳴る。
朝から何時間も繰り返されてきたはずのそれが、十秒を過ぎても戻ってこない。
そんな短い静寂の中で、《雷座》が変わった。
先ほどまでは外の雷に呼応するように断続的な反応を返していた中心部から、今度は空の様子とは関係なく、床を伝うほどの低い振動がゆっくりと広がりはじめた。
地震と呼ぶには小さい。それでも錯覚では済ませられないほど明確な震えに続き、長い年月、何の変化も示していなかった古い術式の一部が淡い光を宿す。
観測棟にいた者たちから、声が消えた。
四百年という時間を、一人の人間が待つことはできない。
だから、一門そのものが待ってきた。
その果てに初めて目にした光景を前にしても、彼らはまだ、それが意味するものを口にすることができなかった。
◇⚡︎◇
鳴神郷の本邸では、幼子が母親の腕に抱かれながら、雨に濡れた窓の向こうを見つめていた。
つい先ほどまでの幼子は、大きな雷鳴が響くたびに小さな身体を強張らせ、母親の胸へ顔を寄せることが多かった。大人たちが慌ただしく出入りし、いつもとは何かが違うという程度のことなら幼いなりに感じ取っていたのかもしれない。ただ、《雷座》や四百年前の記録について交わされる言葉の意味など、まだ一歳の少女に理解できるはずもなかった。
ところが、雷鳴が途切れた瞬間から、その様子が一変する。
母親の服を握っていた小さな指から力が抜け、不安そうに揺れていた瞳が窓の向こうの一点を捉えて静かに止まった。
「紫苑?」
母親が名を呼んでも、幼子――九重紫苑は振り向かない。窓の向こうには雨に煙る山々しか見えず、そのさらに先に福岡の市街地が広がっていたとしても、この場所から目で捉えることなどできない。
まして、そこにある一軒の産婦人科で何が起きたのかなど、知る方法があるはずもなかった。
それでも紫苑は、遥か遠くにいる誰かを確かに見つけたような目をしていた。
そして、まだ多くの言葉を覚えている途中のはずの幼い唇がごく自然に動いた。
「……お生まれになった」
誰もが息を呑んだ。紫苑を抱く母親も、同じ部屋にいた大人たちも一斉に紫苑へ視線を向ける。
――誰が生まれたのか。
――なぜ、それを知っているのか。
――なぜ、一歳の幼子がそんな言葉を口にしたのか。
いくつもの疑問が浮かんだはずなのに、誰もすぐには問いかけられなかった。
紫苑自身が、今しがた口にした言葉を特別なものだと意識した様子すら見せず、ただ雨に閉ざされた山の向こうをひどく穏やかな目で見つめ続けていたからだ。
長く沈黙していた夜空の彼方に一筋の稲光が走った。数秒を置いて届いた雷鳴が鳴神郷を囲む山々を深く震わせる。
今日一日、誰もが何度となく耳にしてきたはずの音だった。
それなのに、このときばかりは。
その場にいた誰の耳にも、先ほどまでと同じ雷には――もう、聞こえなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。




