拾伍話: 終幕には、なお早し
真っ先に戻ってきたのは風の音だった。耳の脇を抜けていく空気の流れに混じり、かすかな金属音が一定の間隔で鳴っている。先ほどまで全身を芯から震わせていた雷鳴がまだ耳の奥へ残っているせいか、初めのうちは何の音なのか判然としなかったが、何度か聞くうちに思い当たった。
屋上のフェンスは風を受けるたび、接合部のどこかが小さく鳴る。屋上に出ればいつでも耳にする、ごくありふれた音。
続いて、閉じた瞼の裏から光が差し込んでくる。あれほど強烈だった白さもすでに収まりつつあるらしく、数度瞬きを繰り返しながら目を開けば、ぼやけていた輪郭が徐々に焦点を結び、真っ先に飛び込んできた色に思わず目を細めた。
青い。
頭上には、朝と変わらぬ快晴が爽快に広がっていた。
空一面に垂れ込めていた曇雲も、絶え間なく校舎を叩いていた黒い雨も、どこを探しても見当たらない。代わりに六月の日差しが暖かく降り注ぎ、雨に濡れた制服の肩や袖を優しく温め始めている。
フェンス越しに外を確かめると、そこには見慣れた住宅街が続いていた。家々の屋根が並び、その間を道路が縫い、遠くのほうには毎日のように目にしている建物まで、収まるべき場所へときちんと収まっている。一本向こうの通りでは白い乗用車が交差点を曲がり、今日ここで大規模な撮影が行われていたことなど知る由もない調子で走り去っていった。
つい先ほどまで、学校の外には何もなかったはずなのだが、こうして見比べると、改めて途方もない規模の撮影だったということが分かる。俺の理解が正しいのであれば、異様な景色を作り出していた仕掛けが解除され、普段通りに切り替わったということなのだろう。
「……すごいな」
途中から役柄を忘れ、主人役をノリノリに演じていたが、ふと我に帰ると意識するより先に素直な感想が口から漏れた。
黒い天蓋がひび割れ、その向こうから本物としか思えない青空が現れたかと思えば、降り注いだ雷が周囲すべてを白く塗り潰し、次に目を開けたときには元通り。まさしく映画館で完成品を眺めるのとは訳が違う圧倒的現場感は驚嘆に値した。
「……戻りましたか」
後ろから漏れた橘さんの声に振り返ると、橘さんは屋上の中央に立ったまま、空から周囲の街並み、足元の床まで順に確認している。忘れ物でも探しているわけではないだろうが、一つひとつが現実に存在することを確かめなければ納得できないといった様子だった。
御堂さんは、さらに分かりやすかった。晴れ渡った空を仰いだまま固まっていたかと思えば、やがて首だけをこちらへ向け、そのままじっと俺の顔を見つめてきた。
目が合っても何も言うまい。何か言いたげには見えるので。
「御堂?」
「いや、待て。ちょっと待ってくれ」
橘さんに呼ばれた御堂さんは片手を突き出し、理解が追いつくまで話しかけるなとでも言いたげに制した。そのまま人差し指を空へ向ける。
「今の、見たよな?」
「ええ」
「雷が落ちたよな?」
「落ちましたね」
「《境》がぶっ壊れたよな?」
「……少なくとも、そういう結果になっています」
「だよな?」
一度、御堂さんの視線が俺を捉え、
「で、こいつは直前まで空を見てた」
「はい」
「そのあと雷が落ちて、《境》が外側からぶち抜かれた」
「はい」
「……なんで?」
「……それを私に聞きますか」
ふむ、やはり二人の反応を見る限り、最後の仕掛けについては現場側にも詳細が共有されていなかったのだろう。出演者に本番直前まで秘密にする思い切った演出だと思う。
だが、その甲斐あって、御堂さんの反応には一点の嘘臭さもない。
仮にこれまでのすべてが演技だったというのなら、それはそれであっぱれな仕事ぶりだ。
「坊主」
おっと、御堂さんが空を指していた指先がそのまま俺へ向けられた。
「はい」
「お前、さっき何をした?」
「主人らしく振る舞っていました」
「……演技の話を聞いてるんじゃねえよ」
「ですが、俺がしたのはそれだけです」
事実を口にしたところで、御堂さんは何かを堪えるように眉間へ指を当て、それでも途中で投げ出すことなく質問を続けた。
「お前が空を見て、何かをした直後に雷が落ちた。その雷で《境》が外側からぶち抜かれて、学校一つを呑み込んでいた《異境》が丸ごと崩壊した。ここまでは分かってるな?」
「……はい」
「なら聞くが、どうやった?」
「どう、と言われましても」
恐らく答えは、御堂さんが求めている以上に単純なものになってしまうのだが。
まあ、全ての回答が百パーセント正しいとは限らない。
俺はありのままの答えを口にするのみ。
「この場面における主人ならば、どのように振る舞うのかをとにかく考えていました。しかし途中で体が熱くなり、どうしていいのか困っているところに九重さんからアドバイスをいただき、青い空が見たいと思いました」
「……」
「そうしたら、都合よく雷が落ちた次第です」
「あれほどの落雷を都合よくで済ませるか……?」
「少なくとも、俺から説明できるのはそれだけですが」
「お前が落としたんじゃないのか?」
「俺に雷を落とせるわけがないでしょう」
さてはこの人、あの爆音の影響を予想以上に受け、まだ混乱が解けてないだろうか。
どこの世界に自分の意思で雷を落とせる中坊がいるというのか。
十四歳の男子中学生にそんな芸当が可能なら、理科の教科書は根本から書き換える必要があると思う。
「じゃあ、偶然だって言うのかよ」
「少なくても、俺の認識ではそうかと」
「空を見た瞬間に雷が落ちて、学校一つ呑み込んでた完全異境の《境》を一撃でぶち抜く偶然があるか!」
……俺に怒られても困るんだが。
「葛城君」
理不尽な怒りの矛先をぶつけてくる御堂さんと入れ替わる形で、今度は橘さんが口を開いた。ただ、御堂さんほど露骨ではないものの、こちらも平静とは言い難く、現場責任者としてどうにか混乱を抑えているように見える。
「君自身には、本当に何かをしたという感覚はないのですね?」
「ありません」
俺の正直な答えに、橘さんが黙り込み、隣では御堂さんが額を押さえた。
うーん、どうにも話が噛み合っていない気がする。大前提、みんな忘れているのではないだろうか。俺はあくまでも飛び入り参加のゲストにすぎない。どういう因果か、主人役に繰り上げされてしまったが、特殊効果の仕組みを説明しろと言われても答えに困る。大の大人が揃いも揃ってそんな簡単なことさえ忘れてしまうとは……寄る年並みとは怖いものだ。
「九重」
俺が明確な答えを知らないと悟ったのか、痺れを切らした御堂さんは俺から視線を外し、少し離れたところに立つ九重さんへと顔を向けた。
「お前、何か知ってるな?」
問い掛けを受けた九重さんは、黒い雨に濡れた長い髪を肩の後ろへ整えながら、すぐには答えなかった。その紫紺色の瞳が俺に一度だけ向けられ、身体に変化が生じていないことを確かめるように静かに細められる。
「九重さん」
見兼ねた橘さんもすかさず言葉を重ねた。
「今の雷と葛城君に関係があるのか? いや、君は屋上に来る前からこうなる分かっていた、違いますか?」
「……」
「説明してくれ。俺たちは今、何を見た?」
風がフェンスを揺らし、濡れた床の上を細かな水滴が流れていく。
やがて九重さんは二人へと身体を向け、普段と変わらない穏やかな声音で口を開いた。
「申し訳ございませんが、現時点で私からお話しすることはできません」
「知らぬ存ぜぬを通すってわけか?」
「いいえ」
御堂さんの問いに返された答えには迷いがなかった。
「お答えできない、という意味でございます」
明確な回答の拒否を突きつけられ、御堂さんの眉間には一段と深い皺が刻まれる。
「この状況で、それがまかり通るとでも思ってるのか?」
「容易にご納得いただけるとは考えておりません。あくまでも葛城さん御自身が何もご存じない現状で、私の推測だけを先にお伝えすることはできません」
「推測と言いながら、随分と確信があるように聞こえるぞ」
「否定はいたしません」
九重さんは終始穏やかな姿勢を崩さないまま、言葉を続ける。
「ですが、今ここで断片的な情報だけを共有すれば、葛城さんの御身を不必要な混乱へ巻き込みかねません。九重家に残る記録との照合も必要となりますので、後日、お二人には正式にご説明する機会を設けさせていただきます」
「後日って、いつだ」
「準備が整い次第、私どもからご連絡いたします。少なくとも、皆様が校内の救助と現状確認を終えるより先に急ぐべきお話ではございません」
正論のようにも聞こえるが、肝心な部分には一切触れていない。
「俺たちを煙に巻くつもりじゃねえだろうな」
「そのような意図はございません。九重家の名において、説明の機会を設けることをお約束いたします」
そこまで口にして、九重さんは一度だけ表情を引き締めた。
「加えて、一つお願いがございます」
「まだあるのか?」
「《境》が外部からの雷撃によって崩壊した事実は、当然ながら所定の報告へとお含めください。ただし、その雷撃と葛城さんを直接結びつける推測につきましては、正式な関係者以外への口外をお控えいただけませんでしょうか」
「報告書から葛城君を外せと?」
橘さんの目が真意を確かめるように僅かに細められる。
「いいえ。皆様が実際に目撃された事実を伏せてほしいと申し上げるつもりはございません。ただ、根拠の定まっていない憶測まで広まれば、葛城さんの平穏と安全を損なうおそれがあります。正式な見解が定まるまでは、必要な範囲に留めていただきたいのです」
「……随分と彼を気に掛けるんだな」
「当然のことでございます」
御堂さんの探るような視線を受けても、九重さんはそれ以上を説明しようとはしなかった。
「橘」
強情な少女を前に、御堂さんが確認するように隣へ視線を向ける。
「どうする?」
「……納得はしてませんが、九重家の名まで出して、後日説明すると宣言されました。確約を得た今ここで押し問答を続ける意味はないでしょう」
橘さんから視線を切り、御堂さんは九重さんへ指を向けた。
「こちらからの詮索はこれ以上はしない。ただし、忘れるな。今の雷だけじゃない。坊主が何を感じ、どうして《境》の外へ干渉できたのか、それにお前が何を知ってるのかまで全部だ」
「承知しております」
「それから、正式な報告以外へ不用意に広めるつもりもない。俺も、こいつも。だが、必要な相手にまで隠すことはできねえぞ」
「十分でございます。ご配慮に感謝いたします」
綺麗に頭を下げられ、御堂さんはなおも何か言いたげな顔をしたが、その追及を甲高い電子音が会話を断ち切った。
鳴ったのは橘さんの胸元から。ほとんど間を置かず、御堂さんが身につけている通信機からも別の呼び出し音が重なる。
橘さんは俺たちとの話を中断して胸元へ手を伸ばし、御堂さんもすぐさま自分の端末を確認する。ほんの数秒前まで雷と《境》の崩壊を前に困惑していた二人から、その色が一気に引いていった。
何が起きたのかを考えるより、まず現場の状況を把握する。
そこから先の切り替えは早かった。
『橘さん、応答してください。聞こえますか』
通信機から流れてきた声は、驚くほど鮮明だった。先ほどまで通信を邪魔していた耳障りな雑音が、ほとんど混ざっていない。
「はい、聞こえています。状況を報告してください」
『境界反応、急速に減衰中。学校全域で空間座標の復元を確認しました。現地の観測機器も順次復旧しています』
「生徒の状態は?」
『現在確認中です。少々――』
返答の途中、向こう側で別の声が重なった。何人もの人間が同時に報告を上げ、指示を飛ばしているらしい。
一方、御堂さんも自分に入った回線を開く。
「御堂だ。東棟、状況を寄越せ」
『こちら東棟班。異境化の解除を確認しました。廊下および各教室は現実側の配置と一致。それと――』
そこで相手の声が一拍止まった。
『置換体が消失しています』
それを聞いた途端、御堂さんから先ほどまでの戸惑いが消えた。
「確認できていた分は全部か?」
『はい。現時点では例外なしです。その代わり、取り込まれていたと推定される生徒を校舎内の複数地点で発見しています。意識がはっきりしていない者もいますが、こちらで把握している範囲に重篤者はいません』
「人数を確定させろ。見つけた順に保護して、氏名と発見位置を記録。意識が戻っていない奴は無理に立たせるな」
『了解』
御堂さんが指示を出している横で、橘さんの回線にも各所から報告が集中し始める。
『一年棟、三名を確保しました。全員生徒です』
『体育館裏で二名。外傷の有無を確認中』
『北階段、接続正常。反復現象は停止しています』
『観測より。学校周辺の境界値、平常域へ接近。なお低下継続中です』
断片的に飛び交う内容を拾っていくだけでも、何が起きているのかは俺なりに理解できた。
校舎を覆っていた異常は消え、途中から様子を変えた生徒たちも元に戻り、消えていた人間も発見され始めている。
つまり、大掛かりな撮影はひとまず成功し、今は出演者の確認とセットの撤収を並行して進めている段階なのだろう。
となれば、俺がいつまでも屋上へ居残る必要もない。
「九重さん」
「はい」
「これで終わりなのですね?」
俺としては単純な確認だったのだが、九重さんはすぐには返事をせず、こちらへ向き直ってから居住まいを正した。
「此度の件につきましては、ひとまず一段落したものと考えてよろしいかと存じます」
そこで言葉を区切ると、胸元へ片手を添え、深すぎず浅すぎない角度で静かに頭を垂れる。
「お見事でございました」
顔を上げた九重さんの声には、屋上へ来るまで俺を導いていたときとは異なる響きがあった。
達成感、とでもいうのだろうか。撮影が上手くいったことに対する満足感。いや、それだけなら分からなくもないが、それにしては妙に重みがあるようにも感じる。九重さん自身が何かを成し遂げたというより、長く待ち望んでいた結果がようやく目の前で証明されたことを喜んでいるようにも見えるのは気のせいだろうか。
「葛城君」
通信を終えた橘さんが、改めてこちらへ向き直った。
「本来なら、このまま詳しい事情を聞きたいところなのですが、校内の確認が優先dす。君自身にも自覚がないようですが、今日のところは九重さんと一緒に帰って構いません」
「承知しました」
「ただし、先ほどの話とは別に、身体の状態は後日きちんと確認させてもらいます。頭痛や耳鳴り、発熱でも、普段と違うことがあればそのときまで待たずに九重さんに伝えてください」
「今のところ、何ともありませんが」
「分からないことが起きた直後です。本人が大丈夫だと思っていても、後から症状が出ることは往々にありますので」
「そういうことなら是非もありません」
撮影終了後の健康管理まで随分と徹底しているとは。いや、大規模な現場ともなれば、安全面に関する規定も厳しいのだろう。今日の撮影内容を考えれば当然なのかもしれない。
「坊主ーーいや、葛城だったか」
今度は御堂さんから呼ばれた。
「はい」
また雷について尋ねられるのかと思ったが、さすがに同じ問答を繰り返すつもりはなかったらしい。御堂さんは少し言葉を探してから、先ほどまでの困惑を押し退けるように鼻から息を吐いた。
「まあ……なんだ。助かった」
それまでとは違い、ふざけた調子は混じっていなかった。
「お前が何をしたのかについては、正直まだ一ミリも納得してねえ。それでも、結果として《異境》が壊れ、中に取り込まれていた連中も戻り始めてる。だから、その点については礼を言っておく」
「いえ……俺は言われたとおりにしただけですので」
「……」
謙虚に答えたつもりだったのが、御堂さんが口を閉じてしまった。
しかし、ややあって彼は空を仰ぐ代わりに額を指先で押さえ、そのまま諦めたような声音で呟いた。
「それが一番意味分かんねえんだよな……」
「?」
「いや、もういい。ただ、最後に一つだけ聞かせろ」
御堂さんは俺の制服から顔、手足へと順番に視線を走らせ、最後にもう一度こちらの目を見た。何を探しているのかは分からないが、見れば見るほど分からなくなっているらしいことだけは、次第に険しくなっていく表情から読み取れた。
「お前、本当に何者なんだ?」
これはまた、随分と大きな質問が来たのものだ。
何者かと問われれば、葛城朔夜という名前ならすでに知られているし、特別な肩書きも持っていない。どこかの組織に所属しているかという意味なら、学校では帰宅部である。
そこまで考えてから、もっと単純な答えで十分なのではないかと思い直した。
「俺は、筋トレが趣味な、どこにでもいる、平凡な中学生です」
「……」
途端、御堂さんの肩から、目に見えて力が抜けた。
何秒か俺を眺めたあと、今さら当たり前の事実を思い出した人間のように頷く。
「……そうだったな」
「はい」
「十四歳なんだよな、お前」
「今のところは」
「今のところって何だよ……」
年齢はいずれ増えるのだから、間違ってはいない。
御堂さんはなおも何か言いたげだったが、最終的には追及する気力の方が先に尽きたらしく、首の後ろへ片手を回しながら深く肩を落とした。
「もういい。今日は帰れ。俺も頭を整理したいんでな」
「お疲れさまです」
「……誰のせいで整理が必要になったと思ってんだぁ、コラ」
そこまで言ってから、御堂さん自身も馬鹿らしくなったのか、最後には小さく手を振って俺たちを送り出してくれた。




