拾陸話:これにて序幕
これにて第一部完結です!!
少し早いですが、お読みくださった皆さん、評価していただいた心優しい方々に、最大級の感謝を!!
御堂さん、橘さん、二人との蜜の濃い時間を過ごした俺は、九重さんと並んで屋上を後にした。
鉄扉が背後で閉まると、外で吹いていた風の音が厚い扉一枚を挟んで遠ざった。
校舎内に入ると、それまでほとんど意識へ入ってこなかった物音が代わりに耳へと戻ってくる。
階段を駆け下りる足音。誰かを呼ぶ声。携帯端末らしき電子音。日常の音に紛れて無線越しに交わされる短い報告まで絶え間なく重なっている。
校舎そのものも、すでに俺の知っている形へと戻っている。階段を上ったはずなのに、同じ踊り場に辿り着くこともない。廊下が本来の長さ以上に伸びていることもない。窓の外には見慣れた校庭が広がり、その向こうには住宅街まできちんと続いていた。
異常が消えたという事実を頭では理解していたものの、普段どおりの景色を一つずつ目にすると、ようやく元に戻ったのだという実感が湧いてくる。
それでも建物が平常に戻ったからといって、校内まですぐに日常から戻ったわけではなかった。
各階では橘さんたちと同じ関係者らしい大人が忙しく行き交い、廊下や教室の中で発見された生徒に声を掛けている。床に座ったまま何が起きたのか分からず周囲を見渡している者もいて、保護された直後なのか、毛布を肩に掛けられている生徒もいた。
俺たちが通った範囲では、深刻そうな怪我人までは見当たらなかったのが不幸中の幸いだった。
それだけ確認できたのは素直によかったと思う。
映画撮影だと聞かされている俺からすれば、どこまでが演技で、どこからが本当の混乱なのか、いまだに判然としない部分も多い。それでも同じ学校に通う人間が、実際に怪我をしていたとなれば、さすがに「撮影だから」で済ませられる気はしなかった。
二階に下りたところで隣を歩いていた九重さんの足が僅かに緩む。
「葛城さん」
「なんでしょう?」
「あちらにいらっしゃるのは、二年三組の水城琴音さんではございませんか?」
示された先に目を向けると、廊下の壁際へ並べられた椅子の一つに、見覚えのある女子生徒が腰掛けていた。
肩に薄い毛布を掛け、手渡された紙コップを両手で包み込むように持っている。顔色は決して良いとは言えないが、教室で俺の制服を掴んできたときに感じた異様さは消えていた。
「水城です」
「お声を掛けていかれますか?」
「……よろしいでしょうか」
俺たちの会話が聞こえたのか、タイミング良く水城もゆっくりと顔を上げた。
こちらの存在を認めた直後、その目が僅かに見開かれた。
俺は背後に九重さんを引き連れ、彼女から一メートルほど間隔を空けて立ち止まる。
「……葛城?」
「大丈夫か?」
「たぶん……って、九重先輩?」
水城は俺の斜め後ろに立つ九重さんの存在に気づき、驚いたように瞬きを繰り返した。
「はい。突然失礼いたします。ご気分はいかがでしょうか」
「え、えっと……まだちょっと、頭がぼんやりしている? 感じはあります」
水城は自分でも良く分かっていないようにそう言い、条件反射的に立ちあがろうする。
「無理に立ち上がる必要はございません。そのままでお話しください」
「す、すみません……」
九重さんに促され、水城は浮かせかけていた腰を椅子へと戻す。
「何があったか、覚えているのか?」
俺が尋ねると、水城は二、三度瞼を瞬かせ、記憶を手繰り寄せるように紙コップへと視線を落とし、やがてぽつりぽつと語りはじめた。
「……昼休み。先生から頼まれたファイルを、資料室に運んでたところまでは覚えてる」
「そうか」
「廊下の角を曲がる前だったかな。黒い傘が置いてあって……」
「黒い傘か」
「うん……誰かの落とし物かと思って手に取ったあと……そこから記憶がなくって……」
そこで水城は小さく息を吐き、困惑を隠しきれない顔を上げた。
「なのに先生からは、私がファイルを資料室に片付けて、五限目には普通に教室に戻ってたって言われたんだよ? そんな記憶、全然ないのに……」
「五限目にはいたぞ」
俺がそう答えると、水城の表情が固まった。
「……本当に?」
「俺の斜め前の席で授業を受けていたのは確かだ」
まあ、随分と静かだった気もしていたが、それは言わなくもいいことだ。
「でも、それ、私じゃない……私は覚えてない」
水城は自分の指先を確かめるように見つめると、紙コップを握る力を僅かに強めた。
「でもさ、そしたら葛城が見てたのって誰なの? 私じゃない私が存在してったことになるよね?」
「ああ、それはおそらく、撮影用の代役だ」
「……撮影?」
「俺は途中から映画へ参加していた」
「待って。何の話?」
水城の顔に別の種類の困惑が加わった。
「え、ちょっとなにその、記憶がないことより気になる情報。葛城、私が消えてる間に映画へ出てたの?」
「平たくいえば、そういうことになる」
「どうしてそんなことになってるの?」
「俺に聞かれても困る」
「そこ、一番詳しそうな人が言っちゃ駄目な台詞じゃない?」
普段に近い調子で言い返され、ぐうの音も出なかったが、少なくとも会話を続けられる程度には回復しているらしいことが分かった。
水城は一度だけ額に手を当ててから、今度はこちらの顔や制服へ視線を走らせる。
「葛城は怪我してないの?」
「今のところは何ともない」
「本当に? 制服、濡れてるけど」
「屋上で雨に降られただけだ」
「雨? 今日、ずっと晴れてなかったっけ?」
「撮影用の雨だろう」
「……ごめん、さっきから何一つ分からないんだけど」
水城はそう言いながらも、俺に目立った怪我がないことを確かめられたからか、張り詰めていた表情を少しだけ緩めた。
「でも、そっか。葛城は無事なんだ」
「ああ」
「なら、よかった」
何気なく返された一言に、こちらも一度だけ頷く。
「水城も無事でよかった」
「……うん」
今度は水城の返事が僅かに遅れた。普段ならその程度の言葉で黙り込む人間ではないはずだが、今日はまだ頭が上手く働いていないのだろう。
そこで九重さんの穏やかな声が加わる。
「水城さん。記憶の欠落については、今ここで無理に思い出そうとなさらない方がよろしいかと存じます。詳しい説明は学校と、関係者から改めて行われるはずですので、まずはお身体を休めてください」
「九重先輩……分かりました。ありがとうございます」
「いえ、ご無事で何よりです」
水城は九重さんに頭を下げたあと、思い出したように俺へ向き直った。
「葛城も、今日はもう帰るの?」
「その予定だ」
帰宅部である俺が放課後に居残る理由もない。これから撮影の打ち上げがあったとしても、騒がしい場所は苦手とするうえ、丁重にご遠慮させていただきたくつもりだ。
「じゃあ、詳しいことが分かったら教えて。映画のことも含めて」
「俺に説明できる範囲ならな」
「絶対だからね。月曜日に学校が普通にあるのかも分からないけど、会えたらちゃんと話してよ」
「覚えておこう」
「もう、そこは約束するって言ってよね」
そう言って、水城はようやく普段に近い笑みを見せた。
その横で、九重さんの紫紺色の瞳が水城から俺に一度だけ静かに移り、袖口へ添えていた指先がほんの僅かに止まる。すぐにいつもの穏やかな表情に戻ったので、水城の容体を改めて確かめていたのだろう。
「またな」
「うん。また月曜、葛城」
水城を担当している職員に軽く会釈し、俺たちは再び昇降口へ向かって歩き始めた。
数歩進んだところで、九重さんから静かな声が掛かる。
「葛城さんーーいや、主様」
呼び方が変わった。撮影はまだ終わっていないのか?
「う、うむ」
「水城さんとは、日頃からよくお話しになるのでしょうか」
「同じクラスだから……な。席もそれほど離れていないし、話す機会はそれなりにある」
「親しい御友人でいらっしゃるのですか?」
「友人かどうかは分からないが、少なくとも話し相手ではある。昼にもパンの件で世話になった」
「パン、でございますか」
「ああ。猛獣の香草焼き風について教えてもらった」
「……そうでございましたか」
九重さんは一度だけ小さく頷くと、それ以上水城との関係を尋ねることはなかった。
なぜそこを確認したのか少し気にはなったものの、俺と同じクラスの人間について把握しておきたかっただけなのだろう。結局、そのあと九重さんの歩調が先ほどより僅かに軽くなったのも含めて謎である。
昇降口に辿り着いたところで、俺はもう一度だけ足を緩めた。
先ほどまであれほど大量に並んでいた黒い傘が一つ残らず消えている。
見覚えのない傘立てもなければ、俺が邪魔にならないよう畳んで壁際へ寄せた古い傘も見当たらない。代わりにそこにあるのは、入学以来何度も目にしてきた下駄箱と、ガラス戸越しに差し込む午後の日差しだけだった。
靴を履き替え、九重さんと一緒に校舎を出る。
正門付近には見慣れない車両が何台も停まっており、白いワゴンや機材車らしき大型車の周辺を関係者が行き来している。
その間を抜けて歩いていると、九重さんが少し先に停められた一台へと足を向けた。
その一台は、黒塗りの大型セダンだった。車種に明るくない俺でも、少なくとも中学生が日常的な送迎へ使うような車でないことくらいは分かる。車体は塵一つ見当たらないほど磨かれ、濃い色の入った窓と相まって、学校の正門前では明らかに周囲から浮いている。
「これは?」
「ご自宅までお送りいたします」
「……随分と立派だ」
「ありがとうございます。車体と窓は防弾・防刃仕様となっております。タイヤも損傷した状態で一定距離を走行できるものへ換装されておりますし、車内には簡易的なぼ防護術式も施されています」
とどのつまり、随分とオプションが施された自動車ということだろう。
防弾や防塵とか、物騒な単語も聞こえたような気もするが、安全であることはいいことだと思います。
車の傍らには黒いスーツ姿の男性が待機しており、俺たちが近づいたところで深く一礼した。
「お待ちしておりました、紫苑様」
「お待たせいたしました」
男性は俺へも丁寧に頭を下げると、後部座席の扉を開いた。
「どうぞ、お乗りください」
ここで遠慮しても話が進まないので、促されるまま乗り込む。
外から見た印象以上に車内は広く、座席へ腰を下ろした途端、学校の椅子とは比較にならない柔らかさで身体を受け止められた。
これで送迎だけというのだから、映画関係者というのは随分と待遇がいいのかもしれない。
ほどなく九重さんも隣に乗り込み、扉が閉じられる。厚いガラスに隔てられたことで、正門周辺の慌ただしい声や車両の音は急速に遠のき、代わりに空調の低い作動音だけが車内に残った。
「主様」
「う、うむ」
「改めまして、本日は本当にお疲れさまでございました」
「九重さんもな。俺よりずっと動いていただろう」
「私は、当然のことをしたまででございます」
「それでも疲れるものは疲れる。帰ったら休んだ方がいい」
そう返すと、九重さんからの応答がない。何かおかしなことでも言ったかと思って横を見ると、彼女は膝の上で重ねていた指をほんの少しだけ握り直している。
「……ありがとうございます」
先ほどまでと同じ丁寧な返事だったが、その一言だけは妙に大切そうに口にされた。
理由は分からないが、悪い意味ではなさそうなので、そこは深く考えないことにする。
やがて車が滑るように発進した。
校門が窓の後ろへ遠ざかり、いつもの通学路へ出たところで、俺は背もたれへ身体を預けながら今日一日の出来事を改めて振り返った。
朝は、普通に学校へ行っただけだったはずなのだ。
それが授業の途中からクラスメイトがおかしくなり、見知らぬ大人から映画撮影だと聞かされ、そのまま校内を走り回った末に主人役へ昇格し、最後には屋上で雷が落ちる場面まで任された。
予定というものは、多少狂うことくらいある。だが、今日のこれは「多少」という範囲を随分と大胆に踏み越えている気がした。
もっとも、終わったのであればそれでいい。あとは家へ帰って風呂へ入り、何か食べて休めば、今日という一日は終了である。
そう考えながら窓の外を眺めていたところで、ふと妙なことに気づいた。
この道を俺は知っている。当然だ。毎日のように歩いている帰宅経路なのだから。
問題は、俺が自宅の場所を伝えた覚えがないことだった。
「九重さん」
「はい」
「そういえば俺、自宅の住所を伝えたましたか?」
「いいえ」
念のため窓の外を確認すると、車は俺が普段利用している通学路から一つ脇道へ入り、そのまま自宅のある方向へ迷うことなく進んでいる。たまたま同じ方面へ向かっている可能性も考えたが、次の交差点で左へ曲がれば、いよいよ偶然では説明しにくい。
そんなことを考えている間に、車は当然のように左折した。
「……俺の家の方向だ」
「はい」
九重さんの返答があまりにも当然めいているせいで、こちらの方が重要な説明を聞き逃していたのではないかという気にまでなってくる。
しかし記憶を辿ってみても、今日会ったばかりの九重さんに住所を伝えた覚えはなく、橘さんたちとの会話でも自宅について話題に上ったことはなかった。
今回の撮影に学校側が協力しているのであれば、参加する生徒について最低限の情報くらい制作側に共有されていても不思議ではない。未成年を大掛かりな撮に巻き込み、自宅まで送迎するとなれば、住所や緊急連絡先を把握しておく必要もあるだろう……たぶん。きっと。
本人の了承をどの段階で取ったのかという疑問は残るものの、今日一日の進行を思い返す限り、説明の順番についてこの現場へ完璧を求める方が間違っている気もする。
帰るべき場所へ正しく向かっている以上、現時点で実害はない。
ならば、ひとまず問題なしとしておこう。
「主様」
「うむ」
今度は九重さんから話しかけてきた。
というか、いつまで俺は彼女の主人役に徹すれば良いのだろうか。
「明日でございますが、何かご予定はございますでしょうか」
「明日?」
「はい」
明日は土曜日である。朝から学校へ行く必要もなければ、誰かと会う約束を入れていた記憶もない。
午前中に部屋を軽く片付け、足りなくなっている日用品を買い足し、その後はトレーニングでもするつもりだったが、いずれも時間を厳密に決めている予定ではなかった。
「特にはないな。掃除と買い物、それから筋トレくらいだ」
「でしたら――」
九重さんはそこで一度言葉を選ぶように間を取り、先ほどまでより少し改まった調子で続けた。
「明日、ご主人様のお時間を頂戴してもよろしいでしょうか」
「……構わないが」
「ありがとうございます」
返事をするなり礼を言われたところを見ると、かなり重要な用事らしい。
「どこかへ行くのか?」
「はい。九重家の本邸へとお越しいただきたく存じます」
突然のお宅訪問……こで今日行われた撮影について詳しい話があるのだろう。
「正確には、私が普段生活している家とは別の場所でございます」
「今日の撮影関係でしょうか?」
そう尋ねると、九重さんは明確に肯定も否定もしなかった。
「本日の件と無関係ではございません」
妙な言い回しである。映画そのものではないが、今日起きたことには関係している、といったところだろう。
「それと――」
九重さんの紫紺色の瞳が、静かにこちらに向けられた。
「私が『主様』をそのようにお呼びする理由につきましても、明日、改めてお話しさせていただきたく存じます」
なるほど、主人役に正式な説明が用意されているらしい。考えてみれば、俺は飛び入り参加しただけで、出演について詳しい話を聞いた記憶がない。撮影中に起きたことについて橘さんから改めて話を聞くとも言われているし、事故や保険、映像の使用許諾といった面倒な手続きが残っていても不思議ではなかった。
そういう話なら、先延ばしにする理由もない。
「是非もなし。行きましょう」
「よろしいのですか?」
「善は急げ。何時にどこに向かえば?」
「場所につきましては、私がお連れいたします。明朝、改めてこちらまでお迎えに上がります」
「また迎えに来ると?」
「はい」
今日一日で随分と厚遇されている気がするが、行き先を知らない以上、自力で向かえと言われるよりは助かる。
「それでは、ありがたくお言葉に甘えたく」
「承知いたしました」
九重さんはそう答えると、膝の上で重ねていた手を僅かに整えた。
「では明日、改めてご挨拶させていただきます」
「そんなに改まらなくても」
「いえ」
そこで返された声には、なぜか譲る気配がなかった。
「私にとりましては、とても大切なことでございますので」
「……そうか」
「はい」
そこまで言われると、それ以上軽く扱うのも悪い気がした。
それに、遅かれ早かれ、何をするのかは明日になれば分かる。
分からないことを今ここで無理に推測しても、正答率が上がる保証はない。情報が足りない状況で結論を急ぐのは効率が悪いため、この件も明日に持ち越すことにするのも悪くないだろう。
会話が途切れると、車内には再び控えめな空調音だけが残った。
窓の外を流れていく景色は、すでに完全に日常のものへ戻っている。買い物帰りらしい女性が信号待ちをし、コンビニの前では制服姿の高校生が飲み物を選んでいる。公園では小学生がまだ遊んでおり、その脇を犬の散歩をしている老人がゆっくりと通り過ぎていった。
数十分前まで学校一つが得体の知れない空間へ呑み込まれていたとは、とても思えない。
まあ、映画撮影なのだから、周囲が平常どおりなのは当然か。
それにしても、今日一日は朝の時点で予想していた進行から随分と遠い場所へ着地したものである。
普通に登校して授業を受け、学校が終わったら帰宅する。せいぜい帰り道でスーパーへ寄るかどうかを考える程度の一日になるはずだった。
それが実際には、クラスメイトが突然暴れ出し、見知らぬ大人に連れられて校舎を走り回り、途中から主人というよく分からない役まで与えられ、最後には屋上で雷が落ちる場面へ参加することになった。
人生というものは何が起きるか分からないとはいうが、今日は少々振れ幅が大きすぎる。
とはいえ、もう終わった話だ。
水城も無事だったし、ほかの生徒も順次保護されている……という設定なのだが、まあ、そういう細かいことはさておき、結果だけを見れば悪くない一日だったと言えるだろう。
そんなふうに一日を総括しているうちに、車は見慣れた大通りを外れ、マンションの多い一画へ入った。
ここから自宅まで数分も掛からない。そう判断した直後、前方へ自宅マンションが見えてきた。
十数階建ての、ごく普通の分譲マンションである。周辺には似た規模の建物がいくつも並んでいるため特別目立つ外観ではなく、俺にとっては毎日出入りしている生活の一部でしかない。
黒塗りの大型セダンはその建物の前で速度を落とし、車寄せの端へ滑り込むように停車した。
「到着いたしました」
運転席から告げられ、俺はシートベルトを外す。
「ありがとうございました」
「とんでもございません」
学校でも対応してくれた男性が車を降り、外側から後部座席の扉を開けてくれた。
ここまでされると、さすがに少し落ち着かない。
俺は中学生であって、どこぞの社長でも政治家でもないのだ。
とはいえ、今さら「自分で開けられます」と言うのも相手の仕事を奪うようでよろしくないので、素直に降りることにする。
車外へ出ると、午後の日差しを含んだ空気が肌に触れた。
学校を出た頃より太陽は僅かに傾き始めており、マンションの外壁には短い影が落ちている。エントランスの自動ドア越しには管理人室の灯りが見え、宅配業者らしい制服姿の人間が台車を押して中に入っていった。
「主様」
九重さんも車から降りてきた。
「うむ」
「本日は、どうかごゆっくりお休みくださいませ」
「九重さんもな」
「私は問題ございません」
「問題がないことと、休まなくていいことは別だろう」
今日の彼女は、学校の中で何人もの相手と戦っていたし、見たこともない動きで校内を走り回っていた。あれだけ身体を使っておいて疲れていないと言われても、少々説得力に欠けるものだ。
「明日も来るんだろう?」
「はい」
「ならなおさら、今日は休んでおいた方がいい。寝不足で来られても困るのはお互い様だ」
明日の予定へ支障が出ないようにという、実利的な理由も添えておく。
すると九重さんは何か返そうとしたものの、途中で言葉を止めた。
「……かしこまりました」
最終的には、珍しく素直に引き下がる。少々押しが強いといころがあるが根は正直で、いい子なのだろう。
「ご主人様のお言葉に従わせていただきます」
「うむ」
そう答えてから、ふと思い出した。
「九重さんも、怪我はしていないんだよな?」
「はい。ご心配には及びません」
「それは重畳だ」
少なくとも本人が問題ないと言っているのなら、今ここで無理に確認する必要もない。
あとは明日。何のために九重家の本邸へ向かうのかは、そのとき聞けばいい。
「じゃあ、また明日」
「はい」
九重さんはそこで一拍置き、紫紺色の瞳をほんの僅かに和らげた。
「また明日、ご主人様にお目にかかれることを心より楽しみにしております」
「うむ」
俺も主人役の名残として、最後の最後までそれらしく返しておく。
そのままエントランスへ向かい、オートロックの前でキーケースを取り出したところで、ふと背後が気になった。
振り返ると、車はまだ出ていない。九重さんも乗り込まず、その傍らに立ったままこちらを見送っている。どうやら俺が建物の中へ入るところまで確認するつもりらしい。
随分と律儀である。これ以上待たせるのは方が悪いので、キーをかざしてオートロックを解除し、そのままエントランスへ入った。
自動ドアが閉まる直前、もう一度だけ外を見ると、九重さんはまだそこにいた。
こちらが建物の中へ入ったことを確かめてから、ようやく車の方へ身体を向ける。
いやはや、最後まで徹底しておられる。
主人役に付き従うという設定を、撮影現場から離れてまで崩さないつもりなのだろうか。
そんな感想を抱きながらエレベーターホールへ向かい、ちょうど一階へ降りてきた箱へ乗り込む。
ボタンを押すと扉が閉まり、静かな作動音とともに身体が上へ運ばれていった。
壁へ背を預けたところで、ようやく肩から力が抜ける。
今日ほど、自宅へ戻るというだけのことに妙な達成感を覚えた日はないかもしれない。
◇⚡︎◇
マンションの自動ドアが閉まり、朔夜の姿が完全に見えなくなったあとも、紫苑はしばらくその場から動かなかった。
主人が無事に帰宅したことを自分の目で確かめるように、紫紺色の瞳をガラス扉の向こうへ向け続けている。
やがてエレベーターが上昇を始めたことを示す表示へ灯りがともると、張り詰めていたものをようやく解くように細く息を吐き、待機していた車へ静かに踵を返した。
「紫苑様」
後部座席の扉を開けた男性が声を潜めて尋ねる。
「福岡境務所から、すでに九重家へと連絡が入っております。先ほどの雷につきましても、正式な説明を求めているとのことですが」
「承知しております。御堂さんと橘さんには、私から後日説明の機会を設けるとお伝えしました。それまでは、主様に関する推測を不用意に広めないようお願いしております」
「よろしいのですか?」
「はい。今の主様は、御自身に何が起きたのかをまだ御存じありません。周囲の者が先に騒ぎ立てれば、御心を乱すばかりか、望まぬ者の目まで集めることになります」
紫苑は車へ乗り込む前に、もう一度だけマンションの上階へ目を向けた。
どの窓が主人の部屋なのか、確認するまでもなく知っている。
「本邸へ戻ります。明朝、ご主人様をお迎えするための支度を整えてください」
「かしこまりました。御当主様へは、どのように?」
問われた紫苑の表情に、屋上で雷鳴を見上げていたときと同じ、静かでありながら抑えきれない喜びがほんの僅かに滲んだ。
「ありのままをお伝えください」
黒い雨に閉ざされていた空を貫き、学校一つを呑み込んだ《異境》を一撃で打ち砕いた雷。誰よりも近くでそれを見届けた紫苑には、ほかの言葉で飾る必要などなかった。
「ご主人様がお目覚めになり、空がその御心へ応えた――と」
男性は一瞬だけ目を見開いたものの、余計な問いを挟むことなく深く頭を下げた。
「承知いたしました」
紫苑が後部座席へ収まると、黒塗りの車は音もなく走り出した。
見慣れた住宅街の向こうへマンションが少しずつ遠ざかっていく中、紫苑は窓越しにその姿を見つめ続け、やがて誰に聞かせるでもなく、長い間胸の奥へ秘めてきた言葉を静かに落とした。
「明日こそ、すべてをお話しいたします」
今日まで彼が知らずにいた力のこと。
九重家が長い年月を掛け、その訪れを待ち続けてきた理由。
そして、彼女がただ一人を主人と定め、再びその傍らへ立つ日を待ち望んできたことを。
「私が、なぜ主様をお待ちしていたのかも」
六月の青空は、先ほどまで黒い雨に閉ざされていたことなど忘れたように、どこまでも静かに晴れ渡っていた。
最後までお読みくださった皆さん、ありがとうございます!!
再度、最大級の感謝を!!
そして、この場をお借りして報告させて下さい。
第二部はまだ完成しておりません( ; ; )。
現在執筆中ですので、出来次第、順次投稿していきたいと思います。
予定では、次章は第二部《鳴神郷編》になるはずです。
第一部で少しだけ見え始めた『雷鳴の使徒』という物語の裏側が、ここからさらに広がっていく予定です。
少しお待たせしてしまうかもしれませんが、今後とも『雷鳴の使徒』をよろしくお願いいたします!




