拾肆話:青天の霹靂 後編
「私は、届くと思っております」
「……届く」
「主様が願わばーー《雷鳴》は応えるだろうと、そう思っております」
不思議な気分になって……不思議な気分と成った。
明確な答えや確信的根拠はどこにも在りはしない。辺りを見渡したところでそんな都合のいいものがそこらに転がっているはずもない。
それなのに、そのはずなのに……彼女にそう告げられた俺の胸には、若者特有とでも言うべき根拠なき自信が不思議なくらい自然と湧き上がっていた。
単純だと笑う者もいるだろう。美少女に煽てられ、何をするのかすら定かになっていないお前に、いったい何が出来るのかと鼻で笑う者だっているかもしれない。
「笑止」
けれど俺は、不可能を不可能だと受け入れて利口に振る舞う現実主義者よりも、不可能を現実へと変えてやろうと、根拠ない自信だけを胸に抱き続ける馬鹿な男で在りたい。未だ人生経験の乏しいガキの俺だが、ガキの俺だからこそ、ガキらしく青臭く在りたいと願うのは、間違っていないはずだ。
「して、俺は何をすればよろしいのでしょうか」
「……信じて、くださるのですか?」
頭上から俺へと視線を戻した九重さんの深い紫紺色の瞳が大きく見開かれる。
「信じます」
誰かを疑うよりも誰かを信じていたい。この先の人生は長い。いつの日か、そんな馬鹿な信条により、落ち込むこともあれば、ひどい目に遭って、信じていたことそのものを悔いる日だって来るかもしれない。
それでもいい。疑って何も失わない人生よりも、信じた末に何かを得られる人生の方を俺は選んでいきたい。リスクを負い、辛酸を舐めたその先にこそ、得られるものに価値はあるのだと、そう信じて。
「……ありがとう、ございます」
目尻に浮かぶわずかな雫は、黒い雨が降り続ける最中にあってなお美しい輝きを放つ。
「では、僭越ながら私が先導させていただきます」
九重さんはそう宣言すると、右手の人差し指と中指で稲妻を象った紋様の描かれた紙片を挟み、それを天へと掲げる。
形の整った桜色の唇が静かに開き、聞き慣れない言葉が黒い雨音を縫って俺の耳へと届く。
「天つ御雷よ、我が請いを聞こし召せ。此の符を標となし、閉ざされし境に往くべき道を示したまえ」
直後、すぐさま何かが起こったわけではなかった。
全身を吹き飛ばさんといわんばかりに吹き荒ぶる突風は吹き止むことを知らず、バケツをひっくり返したような勢いで打ち付ける黒い雨もまた、変わらず屋上を激しく打ち据えている。
そのまま数秒が過ぎた、そのときだった。
ーーゴゥ……。
遥か遠く……いや、距離という概念すら正しいのか分からない曇天の向こう側で、巨大な猛獣の呻き声のような低い音が響いた。
ーーゴゥ……。
二度目の音で、それまで胸の奥にただ引っ掛かっていただけの違和感に、ぼんやりと輪郭のようなものが生まれる。
ーーゴゥ……。
三度目の音で、俺の中で別々に存在していた何かと何かが、かちりと歯車が噛み合う。
「……」
胸の左辺り……心臓が、熱い……。
心臓を起点に溢れ出す熱が、血管を介した血液により全身へとくまなく巡っていく。
ーーゴゥ……。
四度目の音は、曇天の奥から聞こえたのか、それとも自分の心音だったか。
それすらも定かではない混濁した意識の中で、隣から澄んだ声が俺の鼓膜を震わせた。
「主様、お感じになりますでしょうか?」
「……熱い。九重さん、俺は熱でも出してしまったのだろうか」
「今、主様の全身を巡っているその熱は、決して悪いものではございません。私どもの言葉で申しますと《霊力》と呼ばれるものに近いものになります」
「《霊力》……近い?」
「さようでございます。この世界には、《霊素》と呼ばれる目に見えぬ霊的な力が存在しております。そして人は、それを己の内へ取り込み、自らに馴染む形へと変えることで初めて扱うことができます。その人のものへと変じた力を、私どもは《霊力》と呼称しております」
「つまり、今、俺の中を巡っているこれは……」
「本来であれば、そのように考えるのが自然でございます。しかし問題は、主様のそれが私どもの知る霊力とはあまりにも異なっている点でございます」
「どう、異なっているのか、わかりますか?」
「……申し訳ございません。主様のそれは、あまりにも私どもの知る《霊力》とはかけ離れた力ゆえ、私がお答えすることはできません」
思い返せば、確かに彼女は《霊力》そのものではなく、「近いもの」と言っていた。。
「ただし、今、主様の御心を届ける術なら、存じております」
「……俺は、どうすれば良いでしょうか」
「私どもが暮らす《郷》に伝わる伝承によれば、強く、強く、願えば、さすれば主人の願いに《雷鳴》は応えん……という言葉があります」
「願えば……か」
「僭越ながら、主様の願いをお聞かせいただけないでしょうか?」
願い……そんなものは、校舎が鉛色の空に覆われたときから決まっている。
「俺は、青い空が見たい」
ーーゴゥ……。
願いが声となり、言葉となって世界に放たれた時、遥か上空から低い轟きが響く。
先ほどの獣の呻き声とは明らかに違う。腹の底へ直接響いてくるような重い音は、数秒にも満たない間を置いてもう一度、今度は先ほどよりもはっきりと灰黒色の空の奥から響き渡った。
遠くで転がるような音ではない。空の奥底で、途方もなく巨大な何かがゆっくりと身じろぎしたような、低く、深い轟き。
刹那、灰黒色の天蓋の向こう側で白い光が一瞬だけ瞬いた。
「――っ」
背後で誰かが息を呑む。
そしてその直後。
――ゴォォォォンッ!!
先ほどまでとは比較にならない轟音が、空いっぱいに炸裂した。
もはや耳で聞くというよりも、身体そのものへ叩き込まれる音に、屋上の床が足元から細かく震え、転落防止用のフェンスが金属質な音を立てる。
「おい……」
遠くの方から微かに聞こえた声は、誰のものだったのか。
果たして、そちらを確認している暇はなかった。
次の瞬間、それまでとは桁の違う雷鳴が世界全体を震わせ、灰黒色の天蓋越しに再び白い光が走ったからだ。
そして、その雷は一本ではなかった。最初に生まれた光を起点として、細い枝を伸ばすように幾筋もの白光が灰黒色の天蓋越しに透けて見え、瞬く間に視界の端から端まで広がっていく。
次の瞬間、そのうちの一条が灰黒色の天蓋を外側から貫いた。
「……なんだ、これは……」
天変地異の前触れ、神の怒り、異常気象ーー人は見たこともない光景を前に言葉を失ってしまう。
そこで、ようやく気づく。
空の至るところから、巨大な建物が捻じ曲がるような、あるいは厚い硝子に少しずつ亀裂が広がっていくような、不快な軋みが響き始めていることに。
割れているのは雲ではなかった。
学校を覆っている空そのものだった。
黒い雨を降らせ続けていた灰黒色の景色が、巨大な一枚の幕に無数の裂け目を入れられたように歪み、その向こう側からまったく別の色が覗き始める。
「嘘、だろ……」
御堂さんは口を僅かに開いたまま空を見上げ、
「バカな……こんなことが、現実だと言うのですか……」
橘さんも大差なく、何かを言おうとしているようには見えるのだが、適当な言葉が一つも見つからないらしく、崩れ続ける空と俺の間を何度も見比べている。
あれほど分厚く空を覆っていた曇天が裂け、その隙間から鮮やかな青色が差し込み、それは今朝、自宅を出たときに見上げたものと同じ、雲一つ見当たらない六月の澄み切った空だった。
そんなことを考えながら隣から視線を感じ、見ると、九重さんだけは二人とはまるで違う反応を見せていた。
彼女が見ているのは、崩れ続ける空ではなく俺だった。
目の前で《境》が崩壊しているにもかかわらず、その視線は一度として揺らぐことなく、真っ直ぐにこちらへ注がれ、僅かに見開かれた紫紺の瞳には、確かに隠しきれない感情が滲んでいた。
その間にも、雷によって穿たれた亀裂は空の隅々まで広がり続け、次第に灰黒色の雲が剥がれ落ちるように輪郭を失い、黒い雨も降る端から細かな粒子へ変わって消えていく。
その向こうから現れた本来の青空が少しずつ面積を広げ、《異境》に覆われていた学校を現実の側へ押し戻していった。
やがて空間のどこかで、何かが最後まで抗うように低く軋んだ。
それは先ほどまで聞こえていたどの音よりも深く、学校全体へ染み込むように長く尾を引いたものの、もう一度響いた雷鳴によって呆気なく途切れる。
瞬間、世界から黒が消えた。
崩れ落ちる灰黒色の景色の向こうから溢れ出した白い光が、一気に屋上へ押し寄せる。
フェンスも、鉄扉も、橘さんも、御堂さんも、すぐ隣に立つ九重さんの姿さえ、輪郭の端から次々と呑み込んでいった。
目を開けていることすらできないほどの眩しさに、俺は反射的に瞼を閉じた。
それでも、最後に耳に届いたのは、崩壊する《異境》の音でも、遠ざかる雷鳴でもなかった。
「さすがでございます――主様」
黒い雨と雷鳴に紛れ、ほかの誰にも届かないほど小さく落とされた九重さんの声だけが、不思議なくらい鮮明に耳に残ったのだった。




