拾参話:青天の霹靂 中編
結局、俺たち四人で屋上へと向かうことで話はまとまった。
ただ、生徒たちに関わる《黒傘》が残された昇降口を、全員揃って離れるのは得策ではないーーそう判断した御堂さんは、連れ立って来ていた部下へとこの場に待機するよう命じた。
「何かあったらすぐに知らせろ」
「了解です」
「何か起こってからではなく、異変の兆候があった時点で直ちに知らせてください。観測班との回線も維持したままで。向こうに何か動きがあれば、そちらもすぐ報告をお願いします」
「承知しました」
もっとも、指示の具体性という一点だけを評価するならば、軍配は橘さんに上がるのだが。
各々の言葉で各々の指示を、同じ人間に対して告げた二人を背後に、俺は九重さんを追って階段を上がっていく。
二階へと続く踊り場を折り返し、そのまま二階を通過する。さらに三階へと向かう階段を半ばほど上がったところで、下に残した二人の姿はとうに見えなくなり、声も届かない距離になった。
そこでようやく背後から御堂さんの呆れを含んだ声が俺の鼓膜を震わせた。
「お前、わざと俺の指示に被せるように言ったろ?」
「あなたの指示は大雑把すぎるんですよ。少しは受け手の立場も考えて、迷わず実行に移せる指示を出してください。それが上に立つ者の責務だと以前から何度も申し上げているはずですが」
「んな甘いこと言ってるから、お前の下で育つ奴らは根性がねぇんだよ。何から何まで上から答えを与えられた甘ちゃんが、いざってとき役に立つのかよ。苦労しながらも、自分で答えを捻り出してなんぼの現場だろうが」
「話をすり替えないでいただきたい。今議論しているのは部下の在り方ではありません。上に立つ人間の最低限の責務についてです」
「話をすり替えてんのはどっちだよ……なあ、おい、坊主は俺とこいつの意見、どっちが的を射ていると思う」
屋上へと続く三階の踊り場に足を掛けたとき、突如として話の矛先が俺へと向けられた。
前を歩く九重さんの深い紫紺色の瞳が、それとなく俺を映し、気を遣うような視線で「付き合ってあげる必要はありませんよ。何をどのように答えたところで意味はありませんので」と、語っている。
しかし、聞くとはなしに会話が聞こえていた手前、冷徹に無視を決め込むのも心持ちが悪いというもの。
人の上に立った経験がないに等しいただの中坊の俺だからこそ言えることもあるのではなかろうか。
ひいてはそれが、彼らにとって得難い刺激になる意見となればと祈りつつ、俺は階段を上がる足を止めず、素直に感じたことをそのまま口にすることにした。
「筋トレがすべてを解決してくれます」
「は?」
あまりにも端的に告げてしまったようで、御堂さんからの理解は得られなかった。
御堂さんのように素っ頓狂な声は出さずとも、橘さんが眉間に深い皺を寄せているのは言わずもがな。
俺の悪い癖が出てしまった。どうにも長い言葉をもって相手の理解を勝ち取る手段は苦手だ。
でも、だからといって、無理だからと簡単に諦念したくもなかった。
「適切な指示が出せずとも」
一言ずつ、ゆっくりでも良い。
「鍛え抜かれた背中でその在り方を示し」
内側から湧き上がってくる言葉を丁寧に。
「一方で、正しいフォームと適切な負荷を事細かに教えることで」
ありのまま、変に言葉を着飾らせることなく。
「怪我なく効率的に筋肉を育むことができます」
すべてを伝え終えた俺の言葉は、屋上へと続く廊下に妙に残響した。
「……坊主、お前……」
「……先ほどまで言い争っていた我々がどれほど狭い思考で物事を捉えていたことか痛感させられますね」
意見を求められた以上、口下手な俺が、俺なりの解釈で、俺なりに感じたことを、未熟なりにもまっすぐ伝えられたのか、二人の口からそれ以上の言い争いはなくなった。
そして気づけば俺たちは、屋上へと続く鉄扉の前に到着していた。
先頭の九重さんが鉄扉の取っ手に手を掛け、おもむろに俺たちの方を見た。いや、厳密にいえば、先ほどまでプライドを賭けて言い争っていた二人に視線を向ける。
「お二人とも、準備はよろしいですか?」
「……ああ」
「……無論です」
二者二様に左右それぞれ別の方向を見ながら、それでもほとんど同時に答えるあたり、やはり二人の相性は決して悪くないのだろう。
意見の食い違いを引き起こしていたのは、お互いに譲れないものがあったから。言い争っていたとき、きっと彼ら自身もそんなことくらいとっくにわかっていたはずだ。
二人の口論が無事終着を迎え、めでたしめでたし……だったら、どんなに良かったものか。結局のところ、根本的な解決策はこの鉄扉の向こう側にあり、まだ何も終わってなどいないのだ。
御堂さん、橘さんと順番に視線を巡らせた九重さんの大きな瞳が最後に俺を捉える。
言わなくても分かる。言葉を交わすことなく、俺はそれにただ一度頷いて応えた。
それを合図に、彼女は屋上へと続く鉄扉を一気に押し開く。
「「「ーーっ」」」
途端、隙間から黒い雨を孕んだ風が一気に吹き込み、濡れた冷気が廊下の奥まで駆け抜けた。
制服の裾が大きく煽られ、続いて九重さんの長い黒髪が俺の視界いっぱいに躍り出る。おかげで前方視界はものの見事にフェードアウト。
しかし、当の本人は突風をまともに受けてもなおその体勢を崩さない。吹きつける風を受け、わずかに目を細め、怯むことなく鉄扉を押さえて華奢な身体をストッパー代わりにするようにして、その脇を通るよう俺を促してくる。
華奢な体のどこにそんな力があるのかと素直に驚嘆すると同時に、女の子に体を張らせて男として情けない気持ちを抱かざるを得ない。
しかし、ここは彼女の男気ならぬ女気を汲んで然るべき場面である。
俺は促されるまま外へと一歩足を踏み出しーー途端、俺の全身は屋内にいたときとは比べものにならない突風と雨音に襲われる。
「……おいおい、こいつはどうにもすげぇことになってやがるぜ」
「代わります」
「ありがとうございます」
別世界ーー視界を上げた俺の頭の中に、真っ先に思い浮かんだ言葉はそんな言葉だった。
頭上に広がっているはずの青空は跡形もなく、灰黒色の曇天が視界の端から端までを覆い尽くしていた。
その分厚い雲の内部では、黒く濁った何かが巨大な濁流さながらに渦を巻き、ときおり空そのものが呼吸でもしているかのように、その形を不気味に歪ませている。
そこから絶え間なく降り注ぐ黒い雨は、吹き荒れる風に煽られて斜めに走り、フェンスや床へと叩きつけられるたび、細かな飛沫となって宙へ舞い上がる。
普段なら屋上から一望できるはずの住宅街も、道路も、その向こうに連なる建物もどこにもない。
学校の敷地を境として世界そのものが途切れ、その先にはどこまで続いているのかも分からない異様な景色だけが果てしなく広がっていた。
「……ったく、いったい何をどうすれば、これだけの規模の《異境》を作り出せるってんだ……」
「……《黒傘》はこの学校にいた多数の生徒を取り込むことに成功しています」
御堂さんの言葉を引き継いだ橘さんの険しい視線が、眼下の校舎へと落ちる。
「考えたくはない話ですが、これほど大規模な《異境》を形成し、保持し続けているならば、その力の根源について思い当たる節は一つ」
「生徒自身が宿す生命力、ですね」
九重さんの口から放たれた不穏なワードを最後に、俺たちの間から会話が途切れる。
その間にも唸るような強風が吹き荒れ、横殴りに降り続ける黒い雨が校舎を絶え間なく打ち付ける。
頭上を覆う曇天のように、酷く重たい沈黙が支配する中、最初に口を開いたのは御堂さんだった。
「おい、九重」
「はい」
「もはや言う必要もねえと思うが、あえて言わせてもらう」
「はい」
「俺たちが危惧する以上に、状況は逼迫していやがる」
「理解しております」
「この言葉を口にしようとしていることが、俺自身、酷く情けなく、恥じることこの上ない。しかしそうは言っても、《奴》に生徒を盾にされているこの状況下じゃ、俺や橘にできることは皆無に等しい」
「はい」
「もはや何とは言わねぇし、言える立場にもねぇが……お前たち宛にして良いのか?」
「私から申し上げることができるとすれば、ただ一つだけでございます」
「……」
「天命を仰ぎ、ただ待たれよ。さすればーー」
その先の言葉は一際強く吹きすさぶ突風により掻き消され、上手く聞き取ることが叶わなかった。
「……そうか」
しかし、あの突風の最中において、御堂さんは九重さんの言葉をきちんと聞き取ることができたようで、御堂さんは腰の刀の柄をかちゃりと鳴らし、そのまま灰黒色の曇天を仰ぎ見る。
今、彼が何を思い、何を考えているのか、俺には分からない。それでも再び下ろされた顔からは、僅かに残っていた迷いのようなものが消えていた。
「ならこれ以上、俺から四の五の言うことは何もねえよ。思うままにやりやがれ。橘、異論はあるか?」
「……彼と同意見なのは少し癪ですが、はっきり言って、現状の悪さは私の力量を超えてしまっています。本来なら君たちは我々に守られるべき立場です。そして我々にも君たちを守る責務がある。……それにも関わらず、君たちを頼ってしまっている私が私自身、酷く情けない」
そこまで口にして、橘さんはスーツの脇に差し込み、一枚の紙片を取り出した。
「名誉挽回と言えるか定かではありませんが、ここは少しでも大人としての責務を全うします。降りかかる些事は我々に任せ、君たちはこの《異境》をどうかよろしくお願いします」
そして橘さんの話を皮切りに、校内へと屋上を繋ぐ鉄扉の方からけたたましい音が響く。
何事かと視線を向けるより先に、御堂さんと橘さんが動き出す。
それを視線で追った俺だったが、視界の端から九重さんに話しかけられる。
「葛城さん、こちらへお越しいただけないでしょうか」
彼女は風に煽られる長い髪を片手で押さえながら進み、転落防止用のフェンスから十分な距離を残したところで足を止めた。
「ここか?」
「はい」
そこは給水設備や階段室の影にも入らず、頭上を見上げれば、視界いっぱいに灰黒色の空だけが広がる位置だった。
指定された位置へ立つと、背後から「うらっ! お前らの相手は俺だボケェ」と御堂さんのやけくそ気味な声が聞こえ、そのあとから「少しは静かに戦ってください」という橘さんの苦言が飛んだ。
背後で繰り広げられるアクションなどお構いなしに、九重さんは俺のすぐ隣に控えるように移動し、それから一度だけ頭上の空を見上げる。
「葛城さん、もう一度、空をご覧いただけますか?」
「空を?」
「はい」
言われるがまま顔を上げると、視界の先には灰黒色の空があり、頭上を覆い尽くす分厚い雲は、近くで見上げることでその距離感を失わせる。
その奥では黒く濁った何かが巨大な濁流のように蠢き、雲同士が互いを押し潰すように形を変え、絶え間なく落ちてくる黒い雨が風に流され、頬や制服を打つ。
それ自体は、ここに来るまで何度も目にしてきた光景のはずだったが、空に意識を向けた途端、胸の奥に残っていた曖昧な感覚が再び疼き始めた。
何なのかは、依然として判然としない。
それでも、確かにそこにある。
「葛城さんーーいえ、主様」
黒い雨がフェンスや床を激しく叩く中でも、九重さんの声は雑音に紛れることなく鼓膜に届いた。
「今もその存在をお感じになりますか?」
「……」
「そこに葛城さんの御心が届くとお思いですか?」
相も変わらず漠然とした問い。その真意を汲み取ろうと視線だけ向けた先で、九重さんは薄く、それでも確かに、その口元に淡い笑みを浮かべていた。
「何がおかしいんでしょうか?」
主役のことも忘れ、素でそう質問すると、九重さんはハッとしたように俺から視線を切り、頭上を見上げた。
二、三秒ほど沈黙が流れたあと、やがてぽつりとか細い声で、しかし確かな確信を帯びた声が俺の鼓膜に届く。
「私は、届くと思っております」
「……届く」
「主様が願わばーー《雷鳴》は応えるだろうと、そう思っております」




