ハーフエルフのリーナは、俺の鑑定より詳しい
それから数日後の午後、森から戻って廊下を歩いていると、食堂の片隅にリーナがいた。
床に座って、籠を脇に置いて、何かの本を膝の上で開いている。手元には小さく丸まった葉っぱが乗っていて、よく見ると、俺が昨日採ってきた薬草だった。
リーナは俺の足音にすぐ気づいて、本から顔を上げた。窓から差し込む光の中で、髪の毛先がうっすら金色に透けて見えた。
「……あ、レイ」
声が小さかった。リーナはいつもそうだった。長い淡い色の髪が肩のあたりで揺れて、耳の先が少しだけ尖って見える。ハーフエルフだということを、俺はそのとき久しぶりに意識した。普段は、ほとんど忘れている。
他の子たちが廊下で騒いでいる音が、ここだけ少し遠くに聞こえた。リーナの周りだけ、空気の流れが違うみたいだった。
「何してるの」
「これ……何の草か、知りたくて」
リーナは膝の本のページを指で押さえながら、葉っぱを軽く持ち上げてみせた。表紙が見える角度になって、俺は文字を読んだ。『薬草と毒草の見分け方』。
「読めるの」
「うん」
俺は少し驚いた。リーナと話したことはあったけれど、こんなふうにちゃんと話したのは初めてかもしれない。
「いつから読んでるの」
「……少し前から」
自分は、つい最近まで文字はろくに読めなかった。前世の記憶が戻って、文字というものの仕組みを思い出して、ようやく読めるようになってきたくらいだ。リーナは、それを前世の記憶もなしにやっている。
「その本、どこから」
「院長先生に、前に貰った」
「……ふうん」
俺は隣に座った。リーナが少し体をずらして、場所を作ってくれた。
*
リーナが指で押さえているページには、絵と字がびっしりと書かれていた。葉っぱの形、茎の太さ、花の色、生える場所。横にはその草の名前と効能、どんな組み合わせで薬になるかが書いてある。
俺が本を覗き込むと、リーナは黙ってこちらに少し傾けてくれた。
俺は知っていた。鑑定で、その草が「下痢止めの薬になる」「乾燥させると効果が増す」までは把握していた。でも本にはもっと先のことが書いてあった。「子供には半量で使うこと」「腹の張りには別の草と組み合わせる」「収穫期は春から夏」。鑑定で出ない情報が、ここにはある。
知識が、鑑定を補完する。
そんなこと、考えたこともなかった。鑑定は完成された情報を一瞬で与えてくれるけれど、その「使い方」までは教えてくれない。本は、誰かが長い時間をかけて集めた経験の塊で、鑑定とは別の方向から同じ草に近づく道だった。
「これ、私の知らないやつだった」
リーナが葉っぱを俺に見せながら、本のページを少し戻した。
「……でも、似たやつが、ここに」
ページの上のほうを指差した。図に描かれている葉っぱは、確かに似ていた。違いは、葉の付け根の形だ。リーナの持っている葉っぱは付け根が丸いのに、本の絵では尖っている。
「丸い方は、食べられるやつ、たぶん」
リーナが小さく言った。
俺は本を覗き込んだ。確かに、丸いほうの説明が下に書かれていた。「マカーズ(食用)」「葉を煮て食べる」「春から初夏に採れる」。
鑑定でも「食べられる」と出る草だったけれど、俺は名前を知らなかった。
……マカーズ、というのか。
*
「いつから、薬草のことを調べてるの」
「前に熱を出して寝込んだ時に、アリア姉さんが、薬草で私の熱を下げてくれて良くなって、それから」
リーナは本を見たまま答えた。それから少しだけ顔を上げた。
「……熱」
「小さい頃、覚えてないけど、たぶん高かった」
「ふうん」
「だから、私も誰かを治せるようになりたい」
声は小さかったけれど、芯がしっかりしていた。リーナはたぶん、この言葉を何度も自分の中で繰り返してきた。
俺は何も言わなかった。しばらく、二人とも黙って本を見ていた。
「あの、レイ」
リーナが、ふと顔を上げた。
「うん」
「明日、私も森に行ってもいい?」
言葉が出てこなかった。
セルとは違う。セルは押し切ってきたけれど、リーナは訊いてきた。
「……ぜんぶの薬草を、自分の目で見たい」
リーナは続けた。
「本だけじゃ、わからないことがあるから」
俺はリーナを見た。淡い色の髪と、少し尖った耳の先と、本に向かう真っ直ぐな目。
「……院長先生に、聞いてみる」
「うん」
リーナは小さく頷いて、また本のページに目を落とした。期待しすぎないようにしている、という顔だった。
*
夜、台所で院長先生に話した。アリア姉も近くで聞いていた。
「リーナが?」
「うん」
院長先生がしばらく考え込んだ。
「あの子は、賢い子だから……」
アリア姉が小さく頷いた。
「俺が一緒に見てる、入口の手前だけ、手は離さない」
セルのときと同じ条件を、俺は先に並べた。院長先生はそれを聞いてから、もう一度考えた。
「……一度だけ」
「うん」
「レイがどうするか、見てから、また考えるわ」
「わかった」
アリア姉が「リーナに伝えてあげて」と言うので、俺は食堂に戻った。リーナはまだ本を見ていた。
「明日、行ける」
リーナがぱっと顔を上げた。
「うん」
「セルの時と同じ」
「うん」
リーナは静かに頷いて、本を抱えるように胸の前に持ち直した。
* * *
翌朝、リーナは籠を持ってきていた。中には本が入っていた。
「重くない?」
「平気」
リーナは森の入口に着くまで一言も言わなかった。セルのように騒がないし、足取りも静かだった。
入口に入ると、リーナは目を細めて辺りを見回した。
「……いいにおい」
「セルもそう言ってた」
「うん」
ハーフエルフは嗅覚もいいんだろうか。それともリーナとセルが偶然似たことを言っただけだろうか。少なくとも俺には、葉っぱの匂いと土の匂いと、川の方角からくるかすかな水の匂いくらいしかわからない。
俺は歩き出した。リーナは半歩後ろを、本と籠を抱えてついてくる。足音が静かで、ときどき振り返らないと、ついてきているのかどうか心配になるくらいだった。
*
いつもの薬草を採取しながら、俺は何度かリーナに見せた。
「これ、わかる?」
「うん、ハクハ草、傷の熱を取る」
「……ハクハっていうのか」
「本に載ってる」
俺は鑑定で「傷の熱を取る」までは知っていた。でも名前は知らなかった。
次の草も、その次の草も、リーナは本を確かめながら名前を言い当てた。俺は黙って、アイテムボックスではなく籠に入れていった。今日はリーナがいるから、消える草は出せない。
籠が半分埋まったところで、リーナが急に立ち止まった。
「レイ」
「ん」
「これ」
しゃがんで、小さな黄色い花を指差していた。
俺がいつも素通りしていた花だった。鑑定でも「???」としか出なくて、なんとなく目に入らないことにしていた。
「これ、止血草」
リーナが本を開いた。図に描かれているのは、確かに同じ形の花だった。「血を止める、強い」「乾燥させると粉にできる」と書いてある。
俺は内心、もう一度鑑定をかけた。
【止血草】血止め効果(強) 乾燥させて粉末化可
今度は、名前と効能が出た。
……名前を知っているかどうかで、鑑定の結果が、変わる。
俺は黙って黄色い花を見た。
「……知らなかった」
「本に載ってた」
リーナの声は、得意げではなかった。むしろ少し申し訳なさそうだった。レイがいつも採ってきていた草の隣に、こんなものが生えていたのか、と。
俺はしゃがんで、黄色い花を慎重に何本か取った。茎の下から、根を傷つけないように。リーナが本に書いてあった採り方を、横で小さく読み上げてくれた。「根を残せば、また来年、同じ場所に咲きます」と。
「……これ、たくさんあるね」
「うん」
でも、と俺は思った。全部取ってしまったら、来年はもう生えてこない。それも、リーナの本を見なければ気づかなかったことだ。
リーナが本を閉じて、籠を持ち直した。
*
帰り道、俺たちはあまり話さなかった。
森を抜けて貧民街に入る手前で、俺はリーナに言った。
「リーナ、知識すごいんだな」
「……」
リーナはしばらく黙って、それから小さく言った。
「レイの方が、すごいよ」
「え」
「私は、本を見ないとわからない、レイは、見ただけで、わかってる」
俺は何も言わなかった。鑑定のことは言えなかったし、言わないでおきたかった。
「でも」とリーナが続けた。「ふたりでなら、もっとわかる、たぶん」
俺は少し笑いそうになって、堪えた。
「……うん」
「うん」
*
孤児院に戻ると、院長先生が玄関のところに立っていた。
「おかえり」
「ただいま」
リーナが籠を見せた。
「すごく、勉強になった」
短い言葉だった。
院長先生がリーナの頭を撫でた。
「……そう」
「うん」
「また、行きたい?」
「うん」
「レイがいいって言うなら、また」
院長先生はそれだけ言って、奥に戻っていった。
リーナは籠を抱えたまま、食堂のいつもの場所に座って、また本を開いた。今日の収穫を一つ一つ確かめる気らしかった。
*
夜、布団の中で天井を見ていた。
俺の周りに、少しずつ何かが集まり始めている気がする。セルの猫族の聴覚、リーナの本の知識、ベックさんの解体の手つき。みんな、俺の鑑定では届かないところに手を伸ばしてくれている。
チート、と前世の記憶では呼んでいた気がする。スキルが圧倒的だから、何でも一人でできる存在のこと。
でも俺のスキルは、Lv1で、知らないものは「???」のままだ。名前を知れば結果が変わる、ということは、誰かが俺の足りない部分を埋めてくれないと、鑑定は本当の意味で「使える」ようにならない。
……一人じゃ届かない。
その当たり前のことを、俺はようやく今日、ちゃんと理解した気がする。むしろ、それを早めに知れたのは運がよかったのかもしれない。
隣でトーマが寝言で何かつぶやいた。
明日はベックさんのところに行こうと思った。森で採れるものの売り先や使い道を、もう少し詳しく聞いておきたかった。リーナに教えられることも、増えるかもしれない。




