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6/13

猫耳のセルが、森についてきた

翌週の朝、玄関で「行ってきます」と言ったら、セルが立ちはだかった。しっぽがぶわっと膨らんでいた。


「セルもいく」


「だめ」


 俺は短く答えた。


「いくの!」


「だめ」


「ぜったい、いく!」


 猫耳がぺったり倒れた。次に来るのは爪だ。俺は籠を持った手の位置を一度変えた。



 アリア姉が台所から顔を出した。


「セル、だめよ」


「やだ!」


「危ないんだから」


「やだやだやだ!」


 奥から院長先生も来た。


「セル、お留守番してて」


 セルが俺の服の裾を両手でぎゅっと握った。しがみつくというより、もう離さないという意思表示だった。


 他の子供たちが廊下からそっと覗いていた。カインが入口で「うわー、すげぇ泣き方」と他人事みたいに言って、ハナに「しっ」とたしなめられていた。


 セルがぎゃー、と本格的に泣き始めた。


「セル」


 院長先生が屈んで目線を合わせた。


「危ないのよ、森は」


「やだ!」


「セルはまだ小さいから」


「やだ!」


 会話になっていなかった。


 俺は籠を玄関の床に置いてしばらく考えた。怒鳴って引き剥がすのは簡単だったし、アリア姉に任せて泣かせておくのもアリだったけれど、セルの握る力が思ったより強かった。


「……入口の手前だけなら」


 俺が言うと、アリア姉が顔を上げた。


「レイ」


「俺が抱えていく、手は離さない、奥には絶対に入らない」


 アリア姉が小さく息を吐き、院長先生はしばらく俺を見ていた。



「絶対に手を離さないこと」


 院長先生が屈んだまま、低い声で言った。


「うん」


「危ないと思ったらすぐ戻る」


「うん」


「奥には絶対に行かない」


「うん」


 院長先生はもう怒っていなかった。心配しているだけだった。


 俺は何度か頷いてからセルを見た。セルはまだ俺の服を握っていたけれど、泣くのは少し止まっていた。


「……セル」


「うん」


「俺の手、握って」


 セルがぱっと顔を上げて、猫耳がぴんと立った。



 森の入口に着くと、セルが目を真ん丸にした。


「すごい!」


 声が大きかった。


「しっ」


 俺は人差し指を口に当てた。


「ごめんなさい」


 小声になった。猫耳が一瞬倒れて、すぐまた立った。


「うすぐらい!」


「うん、薄暗い」


「いいにおい」


「……そう?」


 俺には葉っぱの匂いと土の匂いしかわからなかったけれど、猫族のセルにはもう少し色々な匂いが届いているのかもしれない。


 セルが手を引いて、入口の少し先に進もうとした。


「待って」


 俺はセルの手をしっかり握り直した。


「ここから先、勝手に動かない、触らない、口に入れない」


「うん」


「特に、知らない草」


「うん」


 セルは素直に頷いた。


 俺は鑑定もアイテムボックスも使えない。セルが見ている前で草が消えるところを見せるわけにはいかなかったので、いつもの倍くらい慎重に、いつものポイントの薬草を少しだけ取って籠に入れる。鑑定なしでも、見覚えのあるやつなら大丈夫だった。


「これは?」


 セルがしゃがんで別の草を指差した。


「触らないで」


「これは?」


「それは食べられる、でも今は取らない」


「これは?」


「それはダメ」


「ぜんぶ知ってる!」


「……まあ、知ってる方」


 なんとなくの勘、ということにしておいた。


 セルはずっと猫耳をぴんと立てて、しっぽを揺らしながら、俺の半歩後ろを歩いていた。



 いつもより遅いペースで籠が半分埋まる頃、セルが急に立ち止まった。俺は気づかずに一歩先へ進んでしまっていて、繋いだ手に引かれる形で振り返った。


 セルの猫耳が、ぴんと前を向いてぴたっと止まっていた。


「レイ」


 声が小さかった。


「……なんかいる」


 俺は鑑定をかけたい衝動を抑えて、セルの視線の先を見た。茂みの向こうで、よく耳を澄ますと確かに葉を踏む音がして、一定のリズムで近づいてきている。


「セル、こっち」


 俺はセルを抱き上げた。三歳の体は思ったより重かったけれど、自分の体も四歳なんだから、まあそんなものだ。近くの木の陰に入ってしゃがむと、セルは俺の腕の中で息を止めるみたいに静かにしていた。


 葉を踏む音が大きくなって、茂みの向こうから角ウサギが姿を現した。一頭で、額に短い角がある。鼻をひくひくさせながら、こちらには気づかずにゆっくり通り過ぎていった。


 音が遠ざかってから、俺はセルを下ろした。


「……すごい、レイ」


 セルが小声で言った。


「……気づいたのはセルだろ」


「そう?」


「うん」


「えへへ」


 猫耳がふわっと動いた。



 昼前にちゃんと孤児院に戻った。籠はいつもの半分くらいだったけれど、そういう日もあると自分に言い聞かせた。


 セルは玄関で大きな声で言った。


「またいく!」


 俺はしばらく黙っていた。絶対にダメだと言うのは簡単だったけれど、セルの耳が真っ直ぐ立っていて、目がきらきらしていて、しっぽがぴんと上向きで、それを叩き落とすのは難しかった。


「……たまにね」


 俺は言った。完全に折れたわけじゃないし、本気で連れて行く気もまだなかったけれど、完全に否定もできなかった。


 セルが「やった!」と言って奥に走っていった。



 院長先生が玄関のところで俺を見ていた。


「ただいま」


「……おかえり」


 俺は籠を渡しながら、ぽつぽつと報告した。入口の手前から動かなかったこと、セルが角ウサギに気づいたこと、手はずっと繋いでいたこと。


 院長先生は黙って聞いていた。それから奥でセルが「またいくの!」と騒いでいる声に振り返って、短く言った。


「セル、よかったね」


 次の言葉は、俺ではなく奥に向けてだった。


「でも、もう少し大きくなってからね」


「やだ!」


 セルの声が廊下に響いて、またぎゃー、と泣き出した。アリア姉が「セルー、今度ねー」と慣れた様子で奥に向かう声がした。


 院長先生がもう一度俺の方を見た。


「……レイ」


「うん」


「ありがとう」


 それだけだった。俺は籠を台所の前に置いて、自分の部屋に戻った。



 夜、布団の中で天井を見ていた。隣ではトーマが静かに寝息を立てていて、向こうの部屋からはカインのいびきが聞こえた。


 約束をまた増やしてしまったかもしれない。「たまにね」と言ったあの一言が、明日も明後日も来週も、ずっと俺について回るんだろうな、と思った。


 セルは絶対に忘れない。絶対に。


 俺は布団の中で少しだけ笑った。悪い気はしなかった。

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