卵が動いた日と、謎の青い花
朝、目を覚ましたら何かが動いた気がした。
天井でも、隣のトーマでもない。——ディメンションルームの中で、だ。
布団の中でまだ目は半分閉じたまま、俺は意識を向けた。卵はちゃんとそこにあったが、いつもと違って何かが「動いた」気配がした。具体的に何があったのかと聞かれても答えられないけれど、生き物の気配というよりは、もっと小さな、空気が一度だけ揺れたような感覚だった。
目を完全に開けて天井を見ると、今日は森に行ける日だと思い出した。
*
台所のアリア姉に「行ってきます」と告げた。
「気をつけてね」
「うん」
「昼前には帰ること」
「うん」
いつものやり取りだった。籠を持って外に出ると、空はうっすら曇っていて風はぬるく、雨は降りそうにない。貧民街の朝はやっぱり静かだった。
*
森に入ってすぐ、いつもの場所で立ち止まった。誰もいないことを確かめてから、ディメンションルームに手を入れて卵を取り出した。
……熱いというのとは違う。今までは「触ると温かい」くらいだったのが、今日はもう一段進んでいて、手のひらが卵の熱で少しじんわりするくらいだった。
鑑定をかけた。
【???の卵】
孵化条件:魔力の継続供給
状態:成長期に移行
推定孵化期間:不明
※鑑定Lv不足のため詳細不明
「……」
俺は卵を両手で持ち直した。成長期、という言葉が、想像していたよりずっとはっきりと、何かの始まりを告げているような気がした。ずっと「安定」のままで、何度魔力を込めても文字は変わらなかったのに、今朝勝手に進んでいる。
「……ちゃんと、育ってるな」
独り言だった。返事はないし、来るとも思っていない。ただ手の中の熱だけが、いつもより少しだけ存在感を増していた。
俺は卵をディメンションルームに戻した。
*
採取はいつも通りだった。川沿いの薬草、木の実の木、鑑定で確かめて片っ端からアイテムボックスにしまう。半分くらい籠が埋まる頃には、いつもと変わらないリズムが戻ってきていた。卵のことを考えると胸の奥が落ち着かないけれど、手は勝手に動く。森は今日も薄暗かった。
*
いつもより、ほんの少し奥に進んだ。なぜそうしたのか自分でもよくわからない。鹿を見つけた場所よりもう一歩だけ川の上流、木の根がごつごつ張り出した、地面の湿った場所だ。
そこに、見たことのない草が生えていた。淡く青みがかった葉で、少し長めで縁が波打っていて、茎が透き通っているように見えた。
俺は近づいて鑑定をかけた。
【???】
※鑑定Lv不足のため詳細不明
……出なかった。名前も効能も、何も出ない。霞んだ「???」だけが浮かんで、それだけだった。
Lv1のせいだろうか、それとも本当に未知のものなのか。
俺はしばらく草を見つめていた。触っていないのに、なぜか「触らない方がいい」という感覚がどこかから来ていて、鑑定の中にあるのか自分の勘なのかは区別がつかなかった。
手は出さなかった。わからないものに手を出さない、というのは最初に決めたことだ。ただ場所だけは覚えておいた。木の根の形と、川の音の方角と、頭上から見える光の角度。次に来たときも、ここに辿り着けるように。
俺はその場を離れた。
*
帰り道、川沿いで少し休んだ。籠を地面に置いて岩に腰掛けてから、ディメンションルームから卵を取り出して膝に乗せた。両手をそっと当てて、いつもより少しだけ多めに魔力を込める。
「お前、何になるんだろうな」
独り言に、返事は来ない。けれどそのとき、卵がほんの一瞬、淡く光った気がした。目を凝らしてもう一度見たけれど、もう光っていなかった。気のせいだったのかもしれないし、木漏れ日の加減かもしれないけれど、それでもなんとなく、応えてくれたような気がした。
俺は卵をしばらく膝に乗せたまま、川の音を聞いていた。水が流れて、葉が揺れて、鳥みたいな声が遠くで一度だけ鳴いた。卵はただ温かかった。
ディメンションルームに戻して立ち上がり、籠を持ち直して帰り道を歩き出した。昼前には帰れる。
*
孤児院の食堂に戻ると、いつもの騒がしさだった。セルが床に座って木の実を並べていて、ニナが何か絵を描いていて、ハナが小さい子のおむつを替えていた。テオはハナの背中で寝ている。
「レイ、おかえり!」
セルが顔を上げて猫耳をぴんと立てた。
「ただいま」
俺は籠を台所に運んだ。アリア姉が顔を出して、籠の中を覗き込んだ。
「あら、今日も結構あるわね」
「うん」
「この実、初めて見るやつね」
「奥の方にあった」
「奥って、入口の手前って約束よ」
「……ぎりぎり手前」
アリア姉が短く息を吐いた。それからちらっと俺を見た。その目は、いつもの「気をつけて」の目じゃなく、もう少し、何かを探るような目だった。長くは見なかったけれど。籠の中身をテーブルに広げて、薬草を仕分け始めた。
俺は何も言わなかった。
*
昼前、布団に少しだけ横になった。午前中だけで籠がいっぱいになる日もあれば半分で帰る日もあって、今日は途中で立ち止まる時間が多かった分、少し疲れていた。
目を閉じてディメンションルームに意識を向けると、卵はそこにあった。いつもと変わらないけれど、確かに何かが変わり始めていた。
……悪い方じゃない、と思いたかった。
目を開けると、天井の隙間から細い光が差し込んでいた。春の終わりが近いらしい。




