行ってきます
出発の朝は、よく晴れた。
雪解けの済んだ街道が、町の北門から、まっすぐ春の中へ伸びていた。
孤児院の門の前に、全員が並んだ。仕事を抜けてきたカイン、オスカルさんに休みをもらったリーナ、工房を止めてきたみんな。ベックさんとオスカルさんまで、坂の下に立っていた。年寄り二人は門までは来ずに、そこから腕を組んで見ていた。それが彼らの距離の取り方だった。
俺は、トーマから貰った鞄を斜めにかけて、みんなの前に立った。
ひとりずつ、だった。
*
ニナは、磨いた川の石をくれた。「きれいな石のおみやげの、こうかんこ」だと言った。ミコとルカは、ふたりで描いた孤児院の絵をくれた。屋根の上に、金色の竜が描いてあった。
ハナは、繕い物の道具一式と、「ボタンが取れたら、自分でつけるのよ」という説教をくれた。テオは、もう八歳になっていたけれど、何をあげればいいかわからなかったらしく、結局ぎゅっと抱きついて、それが一番だった。
セルは、仁王立ちして、息を吸って——
「いっ……いって、らっしゃい!」
噛まなかった。本人が一番驚いた顔をしていた。それから猫耳を伏せて、目を真っ赤にして、でも最後まで、泣かなかった。約束通り、言えた。練習の成果だった。
「行ってきます。森のこと、頼んだぞ、エース」
「……うんっ」
リーナは、写しの紙を確かめるみたいに、俺の胸元を指した。
「持った?」
「持った」
「なら、いい。……予約も、忘れないで」
「一人前になったら、な」
「すぐだから」
リーナは、それだけ言って、一歩下がった。
カインは、腕を組んだまま、顎で北を指した。
「とっとと行って、とっとと帰ってこい」
「七年前から、言うことが変わらないな」
「変える必要がねえからだ」
カインは、にっと笑った。狼の耳が、ぴんと立っていた。
「街道の治安は、王都までは大丈夫だ。自警団の名にかけて——って言いてえとこだが、まあ、竜連れに言うことでもねえか」
トーマは、鞄の肩紐の位置を、無言で直してくれた。職人の最終検品だった。直し終わると、満足そうに一度頷いて、下がった。
アリア姉が、最後だった。
アリア姉は、何か言おうとして、口を開いて、閉じて、もう一度開いて——やめた。
代わりに、両腕で、俺を抱きしめた。
七年前、初めて角ウサギを抱えて帰った日。アズリルの花を売って帰った日。雨の夜の、月白アズリルの朝。この腕は、いつも俺の帰る場所の、最初の一歩目だった。
「……無理だけは、しないで」
「うん」
「無理をするなら——」
「一人でしない。ルーチェがいる」
アリア姉は、腕の中で、小さく笑った。
「なら、いい」
体を離すと、アリア姉はもう、いつもの台所の顔に戻っていた。月に一度の手紙。書かないのは許さない。最後にもう一度だけ、念を押された。
*
院長先生は、門の真ん中に立っていた。
七年前より、白髪が増えた。背は、少し縮んだかもしれない。でも、背筋の伸ばし方は、あの頃のままだった。
「レイ」
「はい」
「あなたが初めて森から帰ってきた日にね、私、思ったの。この子はいつか、もっと遠くまで行く子だって。……その『いつか』が来るまでに、この家を、いつ帰ってきてもいい家にしておこうって。それだけを、ずっとやってきたわ」
院長先生は、孤児院を——増えた建物と、工房と、並んだ家族を、ちらりと振り返った。
「どう。帰ってきたくなる家に、なったかしら?」
「……もう、なってます。ずっと前から」
「なら、合格ね」
院長先生は、笑った。それから、すっと息を吸って、練習の成果を、言った。
「行ってらっしゃい」
泣かずに、言い切った。
「——行ってきます」
俺も、言えた。
*
門を出て、町を抜けた。北門の門番は顔見知りで、出る者の身分を確かめるのが決まりだからと、一応の顔で俺の銅色のカードを検めて、それから「おう、行ってくるか」と手を上げた。作りたてのギルドカードの、最初の出番だった。隣のルーチェには、確かめるまでもない、というふうに軽く頷いただけだった。ここは、俺たちの町だった。
街道を少し歩いて、町並みが途切れたところで、ルーチェが隣で光った。
金色の竜が、春の街道に翼を広げた。七年前の雨の夜よりひと回り大きく、朝日を浴びて、鱗の一枚一枚が燃えるようだった。
背に乗る。翼が上がる。
地面が離れる瞬間、振り返った。
坂の上の孤児院の前で、みんなが手を振っていた。セルが跳ねて、ニナが両手を振り回して、アリア姉が手をかざして、院長先生が、小さく、いつまでも振っていた。坂の下では、ベックさんとオスカルさんが、腕を組んだまま、こちらに顎をしゃくった。
ルーチェが、ひと声、高く鳴いた。
生まれた朝の、きゅう、とはもう違う。空を渡る竜の声だった。それでも俺には、同じ言葉に聞こえた。
——うれしい。
眼下で、アシェンの町が小さくなっていく。森が、川が、岩場が、七年分の道のぜんぶが、春の光の中に広がっていく。
北の空は、どこまでも高かった。
歩む道は、ここから始まる。
そして、知っている。
この道がどこまで続いていても、終わりの一歩は、必ずあの食卓に向かっている。
※2026/9/22 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




