旅支度と、七年越しの贈り物
それからのひと月半は、旅支度と引き継ぎで、あっという間に溶けた。
工房の帳簿をアリア姉に。採取ルートと月白の岩場をセルに。森の主への「挨拶」は、ルーチェが済ませた。何をどう挨拶したのかは知らないが、帰ってきたルーチェは「るすのあいだ、もりのあさいところは、みててくれるって」と言った。森の主が、孤児院の子供たちの見張り番になるらしい。世の中、どうなっているんだろう。
身分証も、作った。冒険者組合——ギルドの出張所で登録すると、名前を彫ったカードがもらえる。ギルドカードというやつだ。
手に取って、俺は思わず二度見した。
金属じゃない。木でもない。爪で弾くと硬い音がするのに、驚くほど軽い。冷たいのに、握っていると指の熱で少しずつぬるくなる。
どうやって作るのかと聞いたら、受付のおじさんは帳場の奥の台を顎で示した。黒い石の板が据えてあって、表面に、見たこともない細かい模様が彫ってある。
「あれに手を置いて、血を一滴垂らす。それでカードになる。仕組みは知らん。誰も知らん」
「血」
「指の先をちょいとな。痛かないよ。……そうしないと、他人が使えちまうからな」
言われるまま、針で指を刺して、石の窪みに一滴落とした。
石が、ほんの一瞬だけ、指の下で温かくなった気がした。それだけだった。次の瞬間には、俺の名前の彫られたカードが、台の上にあった。
「作った人は」
「さあな。ギルドができるより前からあるって話だ。どこの組合にも一枚ずつある。……壊れたら、うちじゃもうカードは出せんよ」
誰にも作り方の分からない道具だけが作れて、持ち主の血でしか動かないカード。だから偽物が出回らない。落としても、拾った奴には使えない。だから、身分証として通る。
理屈は、分かる。分かるけれど、こんなものがこの世界にあるのは、初めて知った。
色は等級で変わるらしい。俺のは、いちばん下のFで、鈍い銅の色をしている。上からS、A、B、C、D、Eと来て、その下だ。金や銀の色をしたカードを持つ人は、この町では見たことがない。
十歳から作れるが、十五の成人までは端に「見習い」の刻印が入る。受付のおじさんは「十一で旅たあ、また若いな」と笑いながら、それでもちゃんと名前を彫ってくれた。見習いだろうと何だろうと、これで俺は、よその町の門で「アシェンのレイ」を名乗れる。カインが「自警団より楽な商売しやがって」と、カードを羨ましそうに眺めていた。
*
ベックさんの店に、最後の挨拶に行った日のことだ。
ベックさんは六十を越えて、店は弟子に半分譲っていたけれど、包丁を磨く姿勢だけは昔のままだった。
「旅に出るんだってな」
「うん。長くなると思う」
「そうか」
ベックさんは奥から、ずっしりした包みを三つ持ってきた。干し肉だった。店で一番いい、燻したやつ。
「持ってけ。金はいらん」
「え、でも——」
「いらんと言ったら……いや、待て」
ベックさんは少し考えて、手を出した。
「やっぱり銅貨一枚置いてけ。商売だからな」
俺は笑って、銅貨を一枚、その手のひらに置いた。七年前、初めて角を売った日の銅貨と、同じ重さだった。
「坊主。……いや、もう坊主って歳でもねえか。レイ」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
「七年前、お前が『解体を教えてほしい』と言いに来た日のことは、よく覚えてる。妙な子供だと思った。今でも思ってる。——だがな、お前に教えた中で、一番大事なことを、最後にもう一回だけ言っとく」
「品の値打ちを、自分が知ってれば」
「——堂々としてられる。そうだ」
ベックさんは、にやりと笑った。
「お前の値打ちを、お前が知ってろ。どこの誰に何を言われてもだ。いいな」
*
オスカルさんは、紹介状を書いてくれた。
王都の薬師ギルドと、監察庁のヴェルナー宛て。後者の封筒は、少しだけ分厚かった。
「ヴェルナーには、いつか会っとけ。あいつは口は固いし、顔は広い。お前の探し物の役に、必ず立つ」
「……俺のこと、書いた?」
「さあな」
オスカルさんは、薬研を回しながら、とぼけた。
「『アシェンの良心が、答え合わせの旅に出る。力を貸してやってくれ』——とだけ、書いたかもしれんし、書いてないかもしれん」
全部書いてあった。
「あの置き文な」と、オスカルさんは手を止めずに続けた。「額に入れて、店の奥に飾ってある。代替わりしても外すなと、弟子に言ってある。この店が一度だけ、町ごと大きな相手と喧嘩して勝った、その証文だからな」
帰り際、オスカルさんは初めて、薬研から両手を離して、深々と頭を下げた。
「世話になった。……何者でもいいさ、お前さんは。アシェンの子だ。それで全部だ」
*
セルは、出発の三日前に、大荒れした。
わかっていたことだった。ずっと我慢していたのも、知っていた。引き金は些細なことで、夕飯の席で誰かが「あと三日だね」と言った、それだけだった。
セルは席を立って、部屋にこもって、夜通し泣いた。アリア姉が行こうとするのを、院長先生が止めた。「今夜は、泣かせておきなさい」
翌朝、セルは目を腫らして食堂に現れて、俺の前に仁王立ちした。
「……おみやげ、いっぱいね」
「うん」
「手紙に、森のこと書いてあったら、へんなこと書いてないか、あたしがチェックするから」
「うん」
「それと——」
セルの猫耳が、ぺたんと倒れて、また、ぴんと立った。
「いってらっしゃい、って、ちゃんと言うから。れんしゅうしたから。……本番でかむかもだけど」
院長先生といい、この家は、行ってらっしゃいの練習をする家らしかった。
*
トーマの「何か」が完成したのは、前日の夜だった。
作業場に呼ばれて、渡されたのは、革の旅鞄だった。
肩から斜めにかける、深い鞄。革は工房の取引先から、金具は町の鍛冶屋から、トーマがひと月半、仕事の合間に少しずつ集めて、縫ったものだった。内側に、小さな仕切りがいくつも付いている。薬草用、紙用、銅貨用。俺の七年の荷物の癖を、全部知っている作りだった。
底の革に、焼き印がひとつ。
籠の編み目の模様だった。
「……これ」
トーマは、頷いた。
七年前の朝、何も言わずに籠を渡してくれた四歳のトーマと、今、何も言わずに鞄を渡してくる十一歳のトーマが、重なった。あの籠から、この鞄まで。俺の森の七年は、ぜんぶトーマの手の中の物と一緒だった。
「……ありがとう」
トーマは、もう一度頷いて、それから、初めて、自分から手を出した。
握手をした。職人の手だった。
*
その夜、寝る前に、院長先生が部屋に来た。
「明日の朝は、騒がしくなるから。今のうちに、ひとつだけ」
院長先生は、戸口に立ったまま、言った。
「行ってらっしゃい、を言わせてね。——おかえりなさい、も」
「……うん」
「約束よ。両方、言わせること」
それが、この家の院長先生の、餞別だった。




