夜の森の最奥へ、特効薬を採りに
夜の森は、空から見ると、黒い海だった。
雨は森の上で霧に変わり、霧の下で木々がうねっていた。ルーチェは川筋に沿って低く飛んだ。雨雲の切れ間から時々月が覗いて、川面が銀の糸みたいに光った。
俺はルーチェの首に身を伏せて、鑑定を撒き続けた。
レベルの上がった鑑定は、視界に入るものの「危なさ」を、色の濃淡で教えてくれるようになっていた。川辺の獣は薄い色。木々の間で目を光らせる夜の猛禽も、薄い色。
森の中ほどを越えたあたりから、色が、変わり始めた。
【ブラックウルフ(群れ)】危険度:中
【大牙猪】危険度:中
【???】危険度:高 ※鑑定Lv不足
昼間の、入口近くの森とは、別の世界だった。貧民街の年寄りが「奥には入るな」と言い続けてきた理由が、色の濃さで、肌でわかった。
「ルーチェ、もう少し高く」
——うん。
地上の色たちは、頭上を過ぎる影をただ見送った。空を行ける、というだけで、危険の九割が消える。俺一人なら、百回死んでいる道のりだった。
*
川が細くなり、岩場が増え、森の天井が開け始めた頃——
前方の闇に、ひときわ濃い色が灯った。
【フォレストロード(森の主)】
危険度:極高
特性:縄張りへの侵入者を排除する
※これ以上の鑑定を、対象が拒んでいます
鑑定が、拒まれた。
初めてのことだった。視えたのは、月明かりの岩場の手前、川を跨ぐようにして立つ、山みたいな影。鹿に似て、鹿よりはるかに大きく、枝のような角が夜空を掻いていた。
森の主。オスカルさんの言った「縄張り」の主が、岩場への道の真ん中に、いた。
ルーチェが、ゆっくりと高度を下げた。
「ルーチェ、だめだ、戦うのは——」
——だいじょうぶ。
——たたかわない。
ルーチェは、主から二十歩ほど離れた川原に、静かに降り立った。そして、首をまっすぐに立てて、主と向き合った。
夜の森が、しん、と止まった。
雨の名残の滴の音さえ、遠慮するような静けさだった。主の影と、金色の竜は、長いこと、ただ向き合っていた。声もなく、動きもなく。でも俺には、ルーチェの背中越しに、何かが行き交っているのが、わかった。言葉より古い、格、のやり取りだった。
やがて。
森の主は、ゆっくりと、頭を下げた。
枝のような角が、月明かりの中で深く傾いて、それから巨体が、音もなく川辺の闇へ引いていった。道が、空いた。
——いこ。
ルーチェが、何事もなかったように歩き出した。
「……お前、ほんとに何者なんだ」
——ルーチェだよ。
それ以上の答えはなかった。たぶん、それが全部だった。
*
岩場は、月の光で満ちていた。
雨雲はいつの間にか割れて、ほとんど満ちた月が、開けた岩場を真上から照らしていた。そして、岩の窪みのあちこちに——咲いていた。
月白アズリル。
アズリルの花の青を、月の色で漉したような、白に近い銀色の花。花びらが月光を吸って、それ自体が小さな月みたいに、ほのかに光っていた。
【月白アズリル】
解熱・解毒効果(極大)
開花:満月前後の三夜のみ
採取適期:今
俺はルーチェの背から降りて、膝をついた。
手は、自然に動いた。茎の下に指を添えて、根を傷つけないように。リーナが本から読み上げてくれた、あの採り方で。教わった通り、群生の半分は、手をつけずに残した。来年も、この岩場に、月白の花が咲くように。
十二本。ニナの分と、施療院の子供たちの分と、これからの分。
アイテムボックスに、そっと収めた。摘んだ瞬間の鮮度ごと運べる場所を、俺は最初から持っていた。あの卵を拾った日から、ずっと。
「帰ろう、ルーチェ」
——うん。
飛び立つ前に、一度だけ振り返った。月明かりの岩場と、銀の花。誰も来ない森の最奥で、何百年も、咲いては散ってきた花たち。
世界は、こんなに綺麗なものを、こんなに遠くに隠している。
届かない場所があるなら、届く道を探す。あの夜、布団の中で決めたことは、間違っていなかった。
*
帰り道の空で、東が白み始めた。
森が黒い海から、緑の海に戻っていく。町の灯りが見えて、孤児院の屋根が見えて——その前庭に、小さな人影が、ふたつ。
アリア姉と、院長先生だった。
あの雨の玄関先から、一歩も動いていないみたいに、二人とも、空を見上げて立っていた。徹夜の白い顔で、毛布を肩にかけて。
ルーチェが、ゆっくりと前庭に降りた。
俺が背中から滑り降りるのと、アリア姉が駆け寄ってくるのが、同時だった。何か言われる前に、俺はアイテムボックスから花を出した。
「月白アズリル。十二本。……オスカルさんのところへ、すぐ」
アリア姉は花を受け取って、それから、空いた方の腕で、俺の頭を抱え込んだ。一回だけ、強く。
「——おかえり」
怒られるのは、それからでよかった。




