雨の夜、家族の前で竜に乗る
朝になっても、ニナの熱は下がらなかった。
医者が来た。町でいま広がっている流行り熱だ、と医者は言った。大人なら寝ていれば治る。だが小さい子供には重くなる。現に施療院には、もう子供が何人も運び込まれている。
「薬は」
院長先生の問いに、医者は首を振った。
「熱冷ましは出せます。ただ、この熱に本当に効くのは、月白アズリルを使った特効薬だけです。そして、その在庫が、町にもう、ない」
「月白アズリル……」
「アズリルの花の上位種です。もともと希少な上に——」
医者は、言いにくそうに続けた。
「買付制の混乱で、薬種の流通が、めちゃくちゃになったままなんです。例年なら秋のうちに王都から仕入れる分が、今年は入っていない。オスカルさんの店も、施療院も、どこも同じです」
失脚した子爵の置き土産が、こんなところに残っていた。
倒れた後も、倒した相手に踏まれ続ける。不正というのは、そういうものらしかった。
*
午後、オスカルさんの店に走った。
店は、戦場だった。熱冷ましを求める親たちが列を作り、オスカルさんは薬研を回しながら、矢継ぎ早に指示を出していた。俺を見ると、列の脇へ顎をしゃくった。
「ニナちゃんか?」
「うん。……月白アズリル、本当にないの?」
「ない。王都に早馬で注文はかけた。だが早くて十日だ。この熱は、重い子だと、そんなに待っちゃくれん」
オスカルさんは薬研の手を止めずに、声を落とした。
「……なあ、坊主。月白アズリルはな、王都から買うもんじゃ、本当はないんだ。あれは昏い森の最奥に、自生してる。満月の前後にだけ、花が開く。昔は、腕のいい採り手が命がけで採ってきたもんだ。今はもう、誰も森の奥には入らん」
「場所は」
「川を、ずっと上った先だ。森の主の縄張りを越えた、月の当たる岩場——と、年寄りから聞いたことがあるだけだがな」
オスカルさんは、そこで初めて手を止めて、俺の目を見た。
「いいか、誰も入らんと言ったのは、入れば死ぬからだ。大人でもだ。……忘れるな」
忘れない。でも、覚えておくのは、別のことだった。
川の上流。森の主の縄張り。月の当たる岩場。満月の前後。
——次の満月は、明日だった。
*
夜、雨が降り出した。
ニナの熱は、夕方からさらに上がった。施療院は満杯で、動かせる状態でもなかった。アリア姉とハナとリーナが交代で枕元につき、濡らした布を替え続けた。ニナはもう、ほとんど目を開けなかった。小さな胸が、浅く、速く、上下していた。
ミコが、廊下で声を殺して泣いていた。セルが、自分の宝物の木の実をニナの枕元に置いて、何度も置き直していた。
俺は、台所の入口に立った。
アリア姉と院長先生が、湯を沸かしていた。
「行ってくる」
二人が、振り返った。
「昏い森の奥に、月白アズリルが自生してる。オスカルさんに場所の手がかりは聞いた。満月は明日。花が開くのは満月の前後だけ。今夜から行けば、間に合う」
「レイ」
アリア姉の声が、低くなった。
「何を言ってるか、わかってるの。夜の森の、最奥よ。大人でも——」
「大人なら、死ぬ」
俺は、遮った。遮ったのは、初めてだった。
「俺なら、行ける」
台所が、雨の音だけになった。
言ってしまった。もう、戻れない。だから、最後まで言うことにした。隠してきた蓋の、せめて縁だけでも開けて。
「俺は、危ないものが視える。触らなくても、暗くても。道に出る前に、わかる。森で食べ物を見分けてたのも、角ウサギを獲れたのも、全部それだ。……それと、俺には、誰より速くて、誰より強い相棒がいる」
「相棒……?」
「理由は、帰ってから全部話す。今夜は、行かせてほしい」
アリア姉が、何か言おうとした。その肩に、院長先生が手を置いた。
院長先生は、長いこと、俺の目を見ていた。検分の役人を迎えたときと同じ、背筋の伸びた立ち方で。やがて、静かに聞いた。
「……戻れるのね?」
「戻る。昼前には、必ず」
いつもの約束の言葉を、わざと使った。院長先生の目が、それで少しだけ、揺れた。
「——行ってきなさい」
アリア姉が息を呑むのが、わかった。院長先生は続けた。
「そのかわり、約束はいつも通りよ。危ないと思ったら、すぐ戻ること。……ニナのことは心配だけれど、あなたに何かあったら、この家のみんなが悲しむわ。私はね、どちらも同じだけ、いやなの」
「うん」
俺は、玄関へ走った。
*
雨の玄関先で、俺は夜空に向かって、小さく呼んだ。
「ルーチェ」
屋根の上から、金色がひとつ、舞い降りてきた。
そして、地面に着く前に——光が、膨らんだ。
人化の光とは違う、逆向きの変化だった。犬ほどだった体が、馬を越え、荷馬車を越え、降りしきる雨を翼で割って、孤児院の前庭いっぱいに、金色の竜が降り立った。
首を低くして、俺に背を差し出す。
——のって。
——とばすよ。
振り返ると、玄関に、アリア姉と院長先生が立っていた。二人とも、傘も差さずに、言葉もなく、見上げていた。
隠しごとの蓋は、もう、開いてしまった。
不思議と、怖くなかった。
「行ってきます」
俺はルーチェの背に乗った。翼がひとつ羽ばたいて、雨と夜が、下に落ちた。
※2026/9/21 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




