人化の練習と、忍び寄る流行り病
それから、満月を待たなくても、ルーチェは短い時間なら人の姿になれるようになった。
最初は数十秒。次の週には、数分。
練習場所は、夜の裏庭か、森のいつもの川辺だった。立ち会うのは俺と、たまにリーナ。人の体というのは、竜にとってはずいぶん勝手が違うらしくて、ルーチェは最初、歩くことすらおぼつかなかった。
「あし、にほんって、むずかしい」
「四本で歩いてたもんな」
「しっぽも、ない。……ふあんになる」
よろけるたびに俺の袖をつかむので、袖が伸びた。三日目に初めて転ばずに裏庭を一周できたときは、本人より、見ていたリーナの方が拍手をしていた。
言葉も、最初はたどたどしかった。
頭の中に直接届いていた頃の「感情の塊」を、いちいち言葉の形に畳むのが、もどかしいらしい。それでもルーチェは喋りたがった。生まれてからずっと、伝えたいものを、きゅう、という一音に全部詰めてきたのだ。その栓が、抜けた。
「レイ。あのね。きょう、セルとかけっこして、セルがころんで、でも、なかなかった。えらかった」
「うん」
「ニナのえはね、わたしが、おはなになってた。おはなじゃないのに。でも、うれしかった」
「うん」
「アリアねえの、シチュー。わたしも、たべてみたい。まりょくじゃなくて、シチュー」
「……いつか、な」
いつか。
その言葉を口にするたび、胸の奥で何かが軋んだ。いつか、というのは、家族に全部を話した後、という意味だ。ルーチェが堂々と食卓に座って、シチューの椀を持つ日。それは、俺が秘密の蓋を開ける日でもある。
*
川辺で、ルーチェが聞いてきたことがある。人の姿で、岩の上に座って、足を水にひたしながら。
「レイは、なんで、かくすの?」
責める響きは、まったくなかった。ただ、不思議だったんだと思う。
「……怖いから、かな」
考えながら、答えた。
「ルーチェが竜だってわかったら、偉い人が連れていこうとするかもしれない。俺の力のことがわかったら、孤児院が、面倒に巻き込まれるかもしれない。だから隠してる。……でも」
「でも?」
「最近、わからなくなってきた。隠してるのは、みんなを守るためなのか、俺が怖いだけなのか」
ルーチェは、足で水を、ぱしゃ、と蹴った。
「わたしはね、レイ」
金色の目が、こちらを向いた。
「うまれたときから、ぜんぶ、しってるよ。レイのまりょくのあじも、レイが、よるにかんがえてることも。……それでも、レイは、レイだった」
だから、と、ルーチェは竜のときと同じ仕草で、首をかしげた。
「みんなも、そうじゃないかなあ」
四歳児の姿で、生まれて半年の竜に、人生で一番痛いところを突かれた。
返事をする前に、ルーチェの輪郭が光ってほどけて、竜に戻った。膝の上に着地して、当然の顔で丸くなる。時間切れだ。
みんなも、そうじゃないかなあ。
その言葉は、帰り道のあいだじゅう、俺の中で鳴っていた。
*
季節は、冬に向かっていた。
朝の水が冷たくなり、子供たちの寝相が団子状に寄り始め、アリア姉が冬支度の毛布を数え直した。新しい交付金のおかげで、今年の冬は薪の心配がない。去年までと違う冬が、来るはずだった。
その夜は、風が強かった。
夕飯のとき、ニナの食が細かった。大好きなパンを半分残して、ハナにもたれかかって、うとうとしていた。
「ニナ、ねむいの?」
「……あつい」
ハナがニナの額に手を当てて、顔色を変えた。
「アリア姉さん!」
アリア姉が飛んできて、額に触れて、院長先生を呼んだ。ニナの頬は赤くて、息が浅くて、小さな犬の耳が、ぐったりと伏せていた。
熱だった。それも、ただの熱じゃない出方だった。
「今夜は冷やして様子を見ましょう。朝になったら、すぐお医者様に」
院長先生の声は落ち着いていたけれど、毛布を持つ手は速かった。
俺は、廊下の隅で、嫌な感覚と戦っていた。
数日前から、町で熱を出す子供が増えている、という話を、オスカルさんの店で聞いていた。流行り病かもしれない、まだわからない、と。
ニナの小さな咳の音が、戸の向こうから聞こえた。
ルーチェが、俺の肩の上で、身じろぎひとつしなかった。
※2026/9/21 台詞を少し修正しました(内容の変更はありません)。




