王都の査察官、すべての帳簿を検める
ヴェルナーという男が町に来たのは、手紙が発ってから一月近く経った、初秋の朝だった。
立派な馬車でも、物々しい行列でもなかった。地味な旅装の男がひとり、従者をひとり連れて、宿場の安宿に入った。それだけだった。表向きは「王国監察庁による、定期の地方巡察」。毎年どこかの町が当たる、くじ引きみたいな検査——ということになっていた。
でも、町の空気は、その日から張り詰めた。
領主の館が、目に見えて慌ただしくなった。買付所の出入りが急に増えて、夜中に灯りが点くようになった。慌てて帳尻を合わせようとしている、というのは、子供の俺の目にもわかった。
「慌てた鼠は、巣の場所を教える」
オスカルさんは店先で、薬研を回しながらそう言った。機嫌が良さそうだった。
*
ヴェルナーがオスカルさんの店に現れたのは、巡察の三日目だった。
俺はそのとき、店の奥で薬草の仕分けを手伝っていた。リーナも一緒だった。だから、二人の再会を、棚の陰から見ることになった。
「薬を買いたい。胃の薬だ」
「症状は」
「三十年来の悪友から、急に長い手紙が届いた。それ以来、胃が痛い」
「そりゃ重症だ。……奥へどうぞ、お客さん」
ヴェルナーは、四十代の終わりくらいの、痩せた男だった。目つきは穏やかなのに、店に入った瞬間、棚の配置から床の傷まで全部数えたような気配があった。こういう目を、俺は知っている。鑑定持ちじゃない。ただ、長年「見る」ことを仕事にしてきた人間の目だ。
奥の部屋で、オスカルさんは集めたものを全部、机に並べた。
通知の写しが四通。樽の件の聞き書き。荷馬車の日取りの記録。施設ごとの、届くはずだった額と届いた額の差の一覧——これはアリア姉の仕事だ。几帳面な字で、三年分。
ヴェルナーは、長いこと黙って、紙をめくっていた。
俺とリーナは、薬草の仕分けを続けるふりをしながら、戸の隙間のやり取りに耳を澄ませていた。リーナの手も、ほとんど動いていなかった。
「……揃いすぎている」
やがて、ヴェルナーが言った。
「素人の集めた証拠は、普通、穴だらけだ。思い込みで歪んで、肝心なところが抜ける。これは違う。何を調べれば筋が通るか、わかっている人間が道筋を引いている。——特に、これだ」
紙の擦れる音。たぶん、あの置き文だ。
「印章を引き比べろ。樽を検めろ。日取りはこれだ。……まるで監察官の指示書だな。オスカル、これを書いたのは誰だ」
俺の心臓が、一拍、重くなった。
リーナの手が、棚の陰で、そっと俺の袖をつかんだ。
オスカルさんの声は、すぐには返ってこなかった。湯呑みを置く音がして、それから、いつもの飄々とした声がした。
「さあな。ある朝、戸に挟まってた。……アシェンの良心が書いたのさ。この町にはな、まだそういうものが残ってるんだ」
「良心、ね」
ヴェルナーの声に、笑いの気配が混じった。
「いいだろう。監察庁は、証拠の出所より中身を問う。……ただしオスカル、ひとつだけ言っておく。その『良心』とやらに会うことがあったら、伝えろ。——筆跡は、隠せても癖は隠せん。次からは、利き手と逆で書け、とな」
俺は棚の陰で、息を止めた。
リーナが俺の袖を、もう一度、ぎゅっと握った。
*
翌日から、ヴェルナーは動いた。
静かで、容赦がなかった。まず施療院と救貧院を回って通知の原本を押さえ、王都から持参した正規の印影と引き比べた。次に、買付所に予告なしで入った。「定期巡察の一環」という名目のまま、帳簿の提出を求めた。表の帳簿が出てくると、一瞥して言ったそうだ。
「結構。では、奥の部屋のものを」
買付所の役人の顔色は、その場にいた下働きが後で語り草にするくらい、見事に変わったらしい。
「帳簿を、すべて検める」
ヴェルナーのその一言が、町中に広まるのに、半日もかからなかった。
その夜、孤児院の夕飯は、いつも通りの薄い麦粥だった。でも、食卓の大人たちの顔は、ずっと前から見たことがないくらい、静かに明るかった。
俺は粥をすくいながら、昼間のヴェルナーの言葉を反芻していた。
——次からは、利き手と逆で書け。
怖い人だ。でも、敵じゃない。それだけは、わかった。




