拾った竜に、名前をつける日
孤児院の手前まで来て、俺は足を止めた。
肩の上では、小さな竜がまだ眠っている。この子をどう紹介するか、帰り道のあいだずっと考えていたけれど、結局「森で拾った珍しい生き物」以上の言葉は出てこなかった。嘘はつかない。言わないだけ。そう決めたはずなのに、玄関の扉がいつもより重く見えた。
覚悟を決めて、扉を開けた。
「ただいま」
「おかえり……あら、今日は早い——」
台所から顔を出したアリア姉が、途中で止まった。視線が、俺の肩に吸い寄せられている。
「……レイ。それ、なに」
「森で拾った」
会話を聞きつけたのか、奥からセルが走ってきて、俺の肩を見上げて、固まった。猫耳がぴんと立って、それからゆっくり、限界まで開いた目と一緒に口も開いた。
「————っ、とかげ! きんいろのとかげ!」
その声で、竜が目を覚ました。
きゅう、と寝ぼけた声で鳴いた瞬間、孤児院の空気が変わった。廊下の奥からばたばたと足音が重なって、ニナが、ミコが、ルカが、カインが、ハナが、次々に顔を出した。
「なにそれ!」「とり?」「とかげだよ!」「ひかってる!」「さわっていい?」
「待って、順番——」
言い終わる前に囲まれた。竜は俺の肩の上で身を縮めて、それでも逃げずに、子供たちの顔をきょろきょろと見回していた。頭の中に、戸惑いと好奇心が半分ずつの感情が流れてくる。
ひとりだけ、輪に入らないやつがいた。
カインだ。廊下の壁にもたれて、狼耳を後ろに倒したまま、じっと竜を見ている。怖がっている、というのとは違う。獲物を見る目でもない。なんというか——格上の相手と、間合いを測っている目だった。
「カインも見る?」
「……見てる」
カインはそれだけ言って、動かなかった。狼の鼻は、たぶん何かを嗅ぎ取っている。この小さな生き物が、ただのとかげじゃないことを。でもカインは何も言わなかったし、俺も聞かなかった。
騒ぎの向こうから、院長先生が歩いてきた。
院長先生は俺の肩の竜を見て、立ち止まった。
長い間、何も言わなかった。子供たちの騒ぎが、その沈黙の周りだけ静かになっていくくらいの間だった。院長先生の目は、珍しいものを見る目ではなかった。何かを思い出しているような、確かめているような、そういう目だった。
「……院長先生?」
「——いいえ」
院長先生は何かを言いかけて、やめた。それから、いつもの顔に戻って言った。
「翼があるのね。怪我はしていない?」
「うん。元気。……飼っても、いい?」
院長先生は竜をもう一度見て、それから俺を見た。
「その子は、あなたに懐いているの?」
「たぶん。離れない」
「そう」
院長先生は少しだけ笑った。
「ちゃんと世話をすること、それを守ったらあとは何も言わないわ」
*
夕飯のあと、食堂で命名会議が開かれた。
言い出したのはセルで、議長もセルだった。竜はテーブルの真ん中に置かれた藁の籠に収まって、全員に見つめられながら、落ち着かなげに尻尾を揺らしていた。
「ぴかぴかだから、ピカ!」
セルが真っ先に手を挙げた。
「やすやすしい」とカインが言った。たぶん「安直」と言いたかったんだと思う。「じゃあなんだよ」「キバ、とか」「牙ないじゃん」「あるかもしれないだろ」
竜が口を開けて、きゅわ、とあくびをした。小さい牙が、一応あった。カインが「ほら」と得意げに言ったけれど、名前としては流れた。
「ぱん」
ニナが言った。理由は聞くまでもなく、ニナの一番好きなものだった。みんな笑って、でも誰も否定しなくて、候補としていったん黒板の隅に残った。
トーマは何も言わずに首を横に振り続ける係だった。ハナは「女の子か男の子かわからないと決めにくくない?」と本質的なことを言った。
俺は黙って聞いていた。頭の中には、生まれた瞬間のあの感じが、ずっと残っていた。あの声の温かさは、なんとなく、女の子のような気がしていた。根拠はない。ただそう感じただけだ。
「……あの」
それまで黙っていたリーナが、小さく手を挙げた。膝の上には、いつもの本とは別の、古い言葉の本が開かれていた。
「ルーチェ、っていうのは、どうかな」
「るーちぇ?」
セルが首をかしげた。
「古い言葉で、光、っていう意味。……ほら」
リーナが本のページをみんなに向けた。読める者はほとんどいなかったけれど、挿絵の太陽と、その下の古い文字を、みんなが順番に覗き込んだ。
「ひかり……」
セルが竜を見た。竜は籠の中で、ランプの灯りを受けて、金色に光っていた。
「……ルーチェ、いいかも」
「ぱんよりいい?」とニナが聞いて、「ぱんよりいい」とセルが答えて、ニナは少し考えてから「じゃあいい」と頷いた。
カインが「まあ、悪くねえ」と言い、ハナが「かわいい」と言い、トーマが初めて首を縦に振った。
俺は籠の中を覗き込んだ。
「ルーチェ。……どう?」
竜は俺を見上げて、それから、きゅう、と一声鳴いた。頭の中に、ぱっと弾けるような感情が流れてきた。生まれた瞬間と同じ、嬉しい、の塊だった。
「気に入ったって」
「なんでわかるの!」とセルが笑って、食堂が沸いた。
騒ぎの輪の外、食堂の入口に、院長先生が立っていた。いつから見ていたのかはわからない。子供たちが代わる代わるルーチェの名前を呼ぶのを、椅子の背に手を置いて、ただ眺めていた。
俺と目が合うと、院長先生は小さく言った。
「その子も、うちの子ね」
それだけ言って、台所の方へ戻っていった。
その夜から、金色の竜はルーチェになった。
*
数日で、ルーチェは孤児院の中心になった。
朝はセルと追いかけっこをして、昼はニナの絵のモデルになって、夕方はテオの隣で一緒に昼寝をした。ハナが古い布で小さな寝床を縫ってくれて、トーマが木の端材で止まり木のようなものを作った。何に使うのかわからなかったけれど、ルーチェは気に入って、よくその上で羽を畳んでいた。
事件も、もちろんあった。
三日目の朝、セルとルーチェの追いかけっこが台所に突入して、洗い終えた皿の山すれすれを駆け抜け、豆の袋を倒し、最後に水瓶の縁でルーチェが急旋回に失敗して、桶の水を半分かぶった。
アリア姉の「こら」の一言で、追いかけっこは止まった。
セルとルーチェは、台所の床に並んで座らされた。一人と一匹、まったく同じ角度でしゅんと俯いているのが、叱っているアリア姉の口元を何度か緩ませかけていた。猫耳と翼が、同じタイミングでぺたんと倒れていた。
「台所では、走らない。飛ばない。いいわね」
「はい……」
きゅう……。
返事まで揃っていた。その日の夕方には二匹——二人はもう廊下で追いかけっこを再開していたから、反省の中身は怪しいものだったけれど。
驚いたのは、ニナだった。
俺が森から帰ると、いつもは真っ先に「れい、おかえり」と来るニナが、その日は俺を素通りして、籠から飛び出してきたルーチェに抱きついた。
「るーちぇ、ただいま!」
「……ニナ。ただいまを言うのは、帰ってきた方」
「るーちぇ、おかえり!」
「ルーチェはずっと家にいたんだよ」
ニナはきょとんとして、それからルーチェと一緒に、ころころ笑った。直す気が失せるくらい、楽しそうだった。
アリア姉は、最初の数日こそ少し距離を置いていたけれど、ルーチェが台所の床に落ちた豆を拾って(食べずに)アリア姉の手に乗せた日から、陥落した。今では洗い物のあいだ、調理台の隅にルーチェの特等席がある。
「ねえ、レイ」
ある晩、台所でアリア姉が言った。
「この子、何を食べてるの? ご飯、ぜんぜん欲しがらないけど」
「……たぶん、俺の魔力」
半分だけ、本当のことを言った。アリア姉は「ふうん」と言って、それ以上は聞かなかった。聞かない、ということを、選んでくれているのが、最近はわかるようになってきた。
*
夜、布団に入ると、ルーチェは決まって俺の腹の上に乗ってくる。
肩でも枕元でもなく、腹の上だ。重さはほとんどないのに、存在だけは、はっきりとそこにある。規則正しい寝息と一緒に、小さな体温が、布団の中にぽつんと灯っている。
ハナの「女の子か男の子か」の問いには、結局あの場では答えが出なかった。でも俺は、ルーチェの寝息を聞きながら、やっぱり女の子なんだろうな、と思っていた。理由は説明できない。頭に流れてくる声の、感じとしか言いようがなかった。
エンシェントドラゴン。伝説の竜。正体は、まだ誰にも言えない。
でも、今のルーチェは、セルの遊び相手で、ニナの親友で、テオの昼寝仲間で、アリア姉の台所の見張り番だ。
家族が、一人増えた。
たぶん、そういうことだと思う。
腹の上の温かさに合わせて、俺もゆっくり目を閉じた。




