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5話

 あれから数週間。

 気付けば私は、昼休みになると当たり前みたいに旧校舎に向かうようになっていた。


 最初の頃みたいに、ドアの前で深呼吸をすることもない。

 パンを持って、外履きに履き替えて、旧校舎へ向かう。

 それが最近の昼休みだった。


 ……慣れって怖い。


 だって私は『ペット』として通っているのだ。

 意味が分からない。

 

 今日の授業はお昼前に体育がある。

 体を動かすことは好きだ。

 小さい頃は、いじめられないように運動の練習をしていたけど、いつの間にか好きになっていた。

 球技も走りも体操も、全部楽しい。

 運動している間は何も考えずに済むから。



 待ちに待った体育の授業。

 今日は楽しみにしていたバスケの時間だ。


 体育館に入ると、1年生がいた。

 そういえば今日、1年生も体育館を使うって先生が言っていた気がする。

 ……タイミング悪くない?

 確か1組は校庭で、2組は体育館って言っていた。

 ひまりはたしか――。


 「あ、見てお姫様よ」

 「本当だ、今日も可愛い」

 「綿あめみたい」


 え――。

 みんなの視線の先にはひまりがいた。

 友達と楽しそうに会話をしている。


 やっぱりみんなからお姫様って呼ばれているんだ。

 確かに可愛いもんな。

 何回か1年生と半面ずつ授業をしたことはあったけど、普段は自分のことでいっぱいで、ちゃんと見たことがなかった。


 「……げ」


 目が合った。

 ひまりは一瞬きょとんとして、それからゆっくり口元を緩めた。

 なになになに。

 この子何を考えているんだろう。


 内心びくびくしていると、授業の時間になった。


 試合が始まる。


 「白石さんお願いします!」

 

 パスを受け取って、ゴール下まで一気に抜けて軽くシュートを放った。

 きれいな音を立ててボールがリングを通る。


 「きゃーっ!」

 「今お腹が見えた!」


 いつもは怖い歓声も、運動中は少しだけ嬉しくなる。

 自分の努力を認められたみたいで。


 ふと視線を感じて横を見ると、ひまりと目が合った。

 その瞬間。


 「あ」


 ボールが顔面にぶつかった。

 場が一気に静かになる。


 「ごめん、よそ見してた」


 顔を上げた瞬間、生ぬるい感触が唇に当たった。

 手でそれを触ると血だった。

 よそ見して鼻血が出るとかダサすぎる。


 「ティッシュ!」

 「保健室に行ったほうが……!」


 周囲が慌てる中、私は鼻を押さえながら言った。


 「平気だよ。ちょっとぶつかっただけだから。先生、保健室に行ってきます」

 「一人で大丈夫か?」

 「はい」

 

 そう言って保健室に向かおうとすると、人混みの向こうから聞き慣れた声がした。

 

 「しず――」


 ひまりは途中で口を閉じる。

 一瞬だけ、青と茶色の瞳が揺れた気がした。

 幸い周りの人たちには気付かれていないようだ。


 ……今、絶対名前呼びかけたよね?



 ――――――――――


 昼休み、私はいつものように旧校舎に向かう。

 ドアを開けると、ひまりはまだ来ていなかった。


 めずらしいこともあるもんだなと、机をいつも通りの形に動かす。

 しばらくたってもひまりは来ない。

 もしかして体調でも悪くなったのかな?


 ドアのほうを眺めていると、ちらちらと人のシルエットのようなものが見えた。

 きっとひまりだ。

 ……なのに、中に入ってこない。


 やれやれとドアまで向かい開けると、私より小さくて、ふわふわな髪をした子がいた。


 「遅いよ」

 

 ひまりは返事をしない。

 少ししゃがんで、目を合わせようとしないひまりの顔を見ると、不安そうに瞳が揺れ動いた。


 「なにか嫌なことでもあった?それとも体調が悪い?」

 「……ごめんなさい」


 小さな声だった。


 「え?」

 「体育館で、しずくと目が合ったから」


 ひまりはぎゅっと、私の制服の袖を握る。


 「わたし、邪魔しちゃった……」


 ひまりのせいじゃないのに、ずっと気にしていたんだ。

 目の端には涙が浮かんでいて、まつ毛をきらきらと濡らしていた。

 こんなこと思ってはいけないのに、綺麗だなと思った。


 「別にひまりのせいじゃないよ」


 そう言って、涙を人差し指で拭い少しだけ笑った。


 「私が勝手によそ見しただけだから。……ほら、早くご飯食べよ?時間なくなっちゃうし」


 袖を握られたまま机に向かう。

 ひまりって、こういう顔するんだ。

 今もシュンとしているひまりに、パンを差し出す。


 「ほら、一緒に食べよ?」

 「……うん」


 小さく返事をして、ひまりはようやく席に着いた。

 でも、まだどこか元気がない。


 いつもなら『わたしのペット』とか『今日もちゃんと来られましたね』ってからかってくるのに。

 静かなままパンを食べる。

 なんだか落ち着かない。


 「……そんなに気にしなくていいのに」

 「だって、しずく怪我した」


 ひまりの声は、思っていたより弱かった。


 「このくらい平気だよ、ただの鼻血程度だし」


 そう言って笑うと、ひまりはじっと私の顔を見つめた。


 「……痛くないですか?」

 「もう痛くないよ」

 「嘘だ」

 

 近い。

 いつの間にか、ひまりの顔がすぐそばにあった。


 「赤くなってる」


 ひまりの指が、そっと鼻先に触れた。

 くすぐったい。

 最近は平気だったのに、また心臓の音がおかしくなる。


 「っ……ひまり、近――」


 言い終わる前に、柔らかい感触が鼻先に触れた。

 ちゅっ。

 短く音が鳴る。


 え、今の何……?

 思わず鼻に手をやる。

 心臓が痛い。

 私、今鼻にキスされた?


 「ただのおまじないです」

 「……へ?」

 「ほら、早く食べますよペットさん。まずはこの卵焼きから食べさせてあげます」

 

 気付いたらひまりは元の位置に戻っていた。


 「間抜けな顔してないで、早く食べてください」

 「ま、間抜けな顔なんてしてないよ!?」


 いつも通りだ。

 でも、ひまりの耳は真っ赤に染まっていた。

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