6話
翌日。
授業中なのに何度も鼻を触ってしまう。
別に痛いわけじゃない。
傷もないし、痣も残っていない。
なのに気付くと指先がそこに伸びている。
『ただのおまじないです』
思い出した瞬間、机に突っ伏したくなった。
キス、キス、キス。
その二文字が頭から離れないのだ。
今まで、何度かキスされそうになったことはある。
なんとか理由をつけて断っていたけれど、内心怖かった。
でも今回は、別に嫌ではなかった。
不意打ちで驚いていたし、唇じゃなかったから。
ただのおまじないみたいなものだったし。
――それともひまりだから。
いやいやいや。
「しずく様、また鼻触ってる……」
「えっ、かっこいい」
かっこいいってなんだ?
あと授業中なんだから、私じゃなくて先生を見なさい。
「それじゃあ次、白石」
「……へ?」
え、なに。
なんだっけ。
あれ?数学?現代文?
というか何問目だ?
「どうした?具合悪いのか?」
「す、すみません。ぼーっとしていました」
「正直なのはいいが……。まあいい、黒板の問題を解きなさい」
「はい」
そうだ数学の時間だった。
黒板に向かい、式と答えを書く。
「正解だ」
先生は満足そうに頷いた。
なんか私だけ毎回当てられてる気がするんだよな。
席に座り時計を見る。
まだ五分しか経っていなかった。
最近昼休みまでの時間が伸びている気がする。
……いや、別にひまりに会いたいわけじゃないけど。
二時間目も、三時間目も。
気付けば私は何度も時計を見ていた。
最近の私はおかしい。
昼休みが近づくにつれて、体のソワソワが激しくなる。
5秒、4、3、2、――。
キーンコーンカーンコーン。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、気付けば私はパンを掴んで立ち上がっていた。
早く、早く、早く。
早く行かなきゃ。
――なんで私こんなに急いでいるんだろう。
でも、足が止まらない。
いつもは反応する呼びかけも、軽く流してしまっていた。
旧校舎に着き、呼吸と髪を整えてからドアを開ける。
ひまりはまだいなかった。
机を並べて、ドアをじっと見る。
まさか、昨日みたいに気まずくて入れないとか?
ドアを少し開けて廊下を除く。
まだいない。
無意識に足が動く。
落ち着かない。
なんなんだこれは。
頭をぶんぶんと振っていると、ドアが開く音がした。
勢いよく顔を上げる。
「わっ、びっくりした」
ひまりは、大きな目をもっと大きくさせて驚いていた。
「ご、ごめん」
「ふふ、勢いが良くてびっくりしただけです」
ひまりは楽しそうに笑うと、隣の椅子に座った。
隣?ああ、そうだった。机を向かい合わせにするのを忘れていた。
「……くっつけていいですか?」
「う、うん」
近い。
向かい合わせじゃなくて隣にくっつけるんだ。
そうですか。
「鼻、痛くないですか?」
「うん、もう大丈夫だよ」
そう返すと、ひまりの視線が私の鼻先に向いた。
昨日キスされた場所だ。
そう思った瞬間、心臓が跳ねる。
「……赤くなってない」
ひまりは安心したみたいに小さく息を吐いた。
ちらりと横を見ると目が合う。
ひまりは一瞬だけ固まって、それからふいっと視線を逸らした。
なんなんだこの空気。
いつもなら、平気な顔で私のことをからかってくるはずだ。
なのに今日は妙に静かだった。
隣に座っているからか、肩が少し触れそうになる。
そのたびに肩に力が入って落ち着かない。
「……しずく」
名前を呼ばれて全身が跳ねる。
「な、なに」
「名前を呼んだだけなのにそんなにびっくりしなくても」
ひまりはくすっと笑う。
でも、少しだけ耳が赤い。
昨日のこと引きずっているのかな?
それとも私が意識しすぎているだけなのだろうか。
「今日は朝から唐揚げを作ってみたんです。はい、どうぞ」
「……いいの?」
「いつも食べさせてるじゃないですか。ほら」
ひまりが差し出した唐揚げを食べる。
美味しい。
私が好きな味だ。
「どうですか?」
「美味しい。この味好き」
「ならよかったです」
ひまりが嬉しそうに笑う。
ふと、甘い匂いがした。
お弁当の中身を見ても、甘いものは何も入っていない。
そうか、近いからか。
きっとこれはひまりの匂いだ。
なんかキモイな私。
「しずく?」
不思議そうに顔を覗き込まれる。
だめだ。
近い。
可愛い。
心臓に悪い。
「……しずく、なんか変です」
「へ!?」
ドキッとして変な声が出た。
いつもか。
「ずっとそわそわしてるし、顔赤いし」
「違う!いや違くないな……やっぱり違う!」
くすくす笑われる。
あーもう。カッコ悪いな私。
「もしかして、昨日のおまじない効きすぎました?」
「っ……!」
思わず鼻を押さえる。
やっぱりからかってきた!
隣に座っているからずっと近いし、どうしろというんだ!
「そんなに押さえていたら赤くなっちゃいますよ?」
ひまりの指が、私の鼻先にそっと触れた。
「ひぅっ……」
情けない声が出た。
「ふふ、情けない声」
「ひまりが変なことするからでしょ……!」
抗議すると、ひまりは少しだけ目を細めた。
「触っただけなのに、そんなに変ですか?」
「だって昨日のキスが――」
言った瞬間、爆発したくなった。
それか土の中にもぐりたい……。
誰か埋めてくれ。
ひまりのことだから、きっと今からいっぱいからかわれるんだ。
そして私は死ぬ。
「あ……」
あ……?
顔を上げる。
耳まで真っ赤になったひまりが、視線を逸らしていた。
――もしかして、照れてる?
そう思った瞬間、胸の奥がじわっと熱くなる。
なんだ。
私だけじゃなかったんだ。
「……ひまり?」
名前を呼ぶ。
白い肌に差した赤色が、綺麗だった。
「今日は静かに食べてください」
ぼそっと、拗ねたみたいに言われる。
「え、なにそれ」
「うるさいペットには唐揚げあげません」
「横暴すぎない!?」
ひまりは楽しそうに笑っていた。
いつも通りなのに、少しだけ違う教室。
この距離が、前より少しだけ心地よかった。




