(3)ある昼-2
昼休みの間ずっと、僕と彼女は互いの席から動かなかった。いつも通りに。僕は鹿屋さんから借りた文庫本に集中し、彼女は彼女の選んだ図書室の本に没頭している。
僕よりも彼女の方が、ずっと多くの本を読んでいた。僕が一冊に悪戦苦闘している間にも、彼女は違う本をどんどんと何冊も読み進めている。そんなことを少し悔しく思って、そして同時に彼女が何を読んでいるのか、いつも気になっていた。
チャイムが鳴って、昼休みが終わると、彼女はさっさと本を書架に戻して、教室に帰っていく。僕はその様子を見届けてから、わざとゆっくりと図書室を出る。話しながら一緒に教室に入ったりすると、「いちゃいちゃしちゃって」とかなんとか、はやし立てられるだろうから。実際にそういう経験をしたので間違いない。
だから、僕が彼女と接するのは、図書室で互いに何もしゃべらないで本を読んでいるときと、帰り道だけだった。それにしたって、もちろん、必ずしも同じ時間に下駄箱で出くわせるわけではなかった。だから、たいていは僕が後から学校を出発して、帰り道の途中で追いつく。
この日もそうだった。これと言って特別なことは学校では起こらなかったから、そこまで時間をすっ飛ばしても問題ないと思う。
というわけで、その日の学校から家への帰り道、半分を過ぎたあたりで、僕は彼女に追いついた。彼女が歩くのは僕よりもゆっくりだったけれど、亀ほどではなかった。もし亀だったら、僕は決して追いつけないところだったろう(この冗談を話してみたときには、鹿屋さんは笑ってくれた)。
声をかけるのには、ずいぶん時間がかかった。いくら経験しても繰り返していても、どうしても、いつものように。
追いついてから、ぴったりと歩幅と足を運ぶペースを合わせ、すぐ後ろを歩き、何度も息を飲み込んだり、息を止めてみたりしながら、胸の奥で出番を待っている言葉をどう発しようか、ひたすらためらい、戸惑い、まごついて、やっと声にすることができた。
――辺根さん。
彼女が僕の方を振り向いた。
二重まぶたの目は大きくて、鼻筋の通った顔は丸い。僕には理由が全く分からなかったけれど、クラスメイトからは金太郎と呼ばれたりしていた(もちろん、からかう意味が込められていたんだろう)。今は、髪を二つに分けて束ねている。
きょとんと、彼女は僕を見つめていた。別に意外だったからではなくて、癖のようなものだった。そして僕がまたどきりとして内心うろたえるのも、決まり切った、いつまで経っても変わらない、癖というか習慣のようなものだった。
彼女に、今日は何を読んでいたのかと尋ねた。彼女は外国の絵本作家の名前と作品の題名を言って、やっと図書室に入れてもらえたから、と付け加えて、それを読んでいたと答えた。
僕はそんな彼女を、相変わらずよく分からないと思いながら話した。彼女が言った作家の絵本を、僕も読んだことがあった。それはシャーロット・ソフィアという女の子の物語で、何をどう感じるようになればこれを面白いというか好きだと思えるのかという内容だった。だから、きっと彼女が本当に一番好きな本であるはずの絵本についての話はせず、共通した感覚や経験を持てるような本について話してばかりだった。
このときにも、僕は、そんな本について持ち出した。
――あれ、読んでる?
――まだ、途中。
――面白い?
――よく分かんない。
――僕も……難しいって言うか、何のことを言ってるのか分からないことばっかりで。
――でも、たまに笑えるよ。
――本当に?
――最初の奥さんと別れるシーンなんて、笑いどころでしょ?
――そう……だったかな。
話すと言ってもこんな調子だったから、かみ合っているんだかいないんだか、キャッチボールというよりは彼女が放るボールを、僕が苦労して追っかけ回すような状態だったと思う。それでも、僕にとっては楽しい時間だったし、鹿屋さんと話しているときとは違う形で、胸が高鳴っているのも分かった。
どんな思いを抱いていたにしても、僕たちが話すのは帰り道のわずかな時間だけだった。
同じ団地(戸建ての家が寄せ集められ、いかにも人工的でとってつけたような名前)に住んでいたのだから、三十分かかる帰り道のほとんどが重なり合っていたはずなのに。こうやって歩けるのは、毎日ではなくて、時々、週に一回か二回のことでしかなかったからだ。
そのくらいの方が、からかわれずに済んで良かったのかもしれない。公然の秘密だったという気もするけれど。
最後の交差点で、僕たちは互いに「さよなら」と言った。彼女は信号のない方向に歩いていき、僕は信号待ちをする。彼女が歩いていく姿、黄色い帽子と赤いランドセルが目立つその後ろ姿を、僕はずっと見送っていた。信号が二回青に点灯できるくらいの時間をかけて、ぼんやりと。




