(9)別れの瞬間に行き着くとき(その日)-12
僕は手を打ち合わせた。痛みを覚えるほどに強く。
悔しかった。歯を食いしばり、目を閉じていたのも、悔しさのせいだった。
ゆっくりと手を開いていくと、光球が出現する。何度もしてきたこと。特にこの日には。光球は僕の手の間で、大きくなっていった。
僕はしかとポリフェムスの姿を見据えた。四つん這いで立ち上がろうとしている。がくがくと手足が震えている。
いったい何をしてきたのかと、僕がしようとしていることにいったい何の意味があるのかと、自分自身に向かって問う声が聞こえた。僕の耳は何も聞こうとしなかった。
これで全部終わりだ。ただそれだけを思った。その言葉だけが胸を、頭を満たした。いつの間にか、目の端から涙が一筋こぼれ落ちた。
――これで……全部、終わらせてやる。この、この……
頭の中はありとあらゆる思考で塗りつぶされて真っ黒になっていき、胸の奥で、心の入れ物は注がれた感情であふれていた。
――この……くそったれがぁっ!
ありったけの力を込めて、僕は叫んだ。頭の悪さを如実に表すように単純な罵り言葉を添えて。そして僕は、光球を担ぎ上げ、ポリフェムスに向かって投げつけた。
ポリフェムスが口を開いて、何か言いかけたような気がした。しかしそれが言葉にならないうちに光球が炸裂し、大爆発が起こった。
轟音とともに光がほとばしり、ものすごい風が巻き起こった。辺り一面が光に包まれて、後には何も残らなかった。そこにいたはずのポリフェムスも、木々も、岩も全てが蒸発して、大きな穴だけがあった。何もかもを呑み込んでしまった、怪物の大口が開いているように。
これで終わりだ。そんな言葉が頭をよぎった。その間に、僕の全身を覆っていた衣装が、少しずつ崩れ始めた。
僕は目から涙をぼろぼろとこぼしながら、山を歩いた。彼女を見つけなくては。
日はほとんど落ちてしまい、もう辺りは暗かった。遠い幹線道路のナトリウムランプは頼りにならない。月明かりを、これほど明るいと、頼りになると思ったことは、今までになかった。
嗚咽を漏らし、涙で曇った視界の中に、彼女の姿を探した。そうしている間にもスーツは崩れ、消えつつあった。
最後の力で、やらなければならないことがある。そう自分に言い聞かせ、僕は一歩ずつ山の土を、落ち葉を踏みしめた。体があまりにも重かった。
やがて、そこにたどりついた。彼女が、仰向けに横たわっていた。目は閉じられている。口はわずかに開いていた。もつれ合った睫毛は長く、唇にはつやがあって、その肌は真っ白で、なだらかな稜線を描いている。
なんて美しいんだろうと、僕は思っていた。彼女の姿を、月明かりに照らされる中、こんな感情の元で眺めることになるなんて想像もしていなかったけれど、はっきりと僕は、彼女は美しいと感じていた。同時に、官能そのものの感覚が、心臓の鼓動を早めていた。
倒れていた彼女を引き起こすために肌に触れる。しっとりとして、なめらかで、同時に、ぞっとさせられるほど暖かかった。
彼女の背中に腕を通して、その体を持ち上げた。体を作る柔らかさ、固さ、弾力、熱の感触に、僕は怯えるほどだった。腕や首はだらりと下がり、力ない。
僕は彼女の胸、わずかにしか膨らんでいない胸に、体を震わせながら、耳を当ててみた。鼓動が、音というよりは振動そのものとして聞こえた。心の底から、ああ良かったと思った。
そして、また涙がどっとあふれ出た。その涙は僕の頬を伝い、彼女の顔に、何滴か垂れ落ちた。別に、それによって永遠の眠りから奇跡的に目を覚ましたりするわけではない。
彼女はすぐに目を覚ますだろう。顔をはたいたりしてみれば、すぐに起きてくれるだろうというのは、僕にもはっきりと分かっていた。
僕には、やるべきことが残っていた。最後の役目と言ってもいい。
僕は彼女を背負って、山を下りていった。その間にも僕が身に着けていたスーツはどんどん崩れ落ちていき、あれほど全身にみなぎっていた力が、失われていっているのも分かった。それに従って、全身に痛みが走っていき、だんだんとそれは強まっていた。きっと、それを抑えていたスーツが失われたために、蓄積されていた痛みやら疲労やらが、堰を切ったように解放されてしまい、僕の体を襲っていたのだろう。
そんな状態の僕には、彼女をおぶって歩く一歩一歩も、苦痛と疲労にまみれたものになっていた。それでも僕は歩かなければならなかった。彼女の重みが僕の足に枝葉や石を食い込ませているのだとしても、僕は彼女を背負って、ずっと歩いて行かなければならなかった。




