(9)別れの瞬間に行き着くとき(その日)-8
光が収まり、顔を覆っていた指をどけてしっかりと目線を据えると、そこに何がいたのか、何が起こったのか、僕ははっきりと見た。
それは裸の少女だった。
ポリフェムスが、片腕をその脇から通して抱きかかえている。月明かりに浮かび上がるその姿は全身が息をのむほど真っ白で、一点の汚れもないように見えた。描かれた嘘のように。
目は閉じられ、口は半開きで、わずかにその胸、ほんの少しの隆起があるだけの胸が上下しているのが分かる。結われていない髪は顔に垂れかかり、長い睫毛を持つ瞼はくっきりとしている。
そんなものを、僕は初めて見た。僕はそういう官能についてはおそらく年齢に不相応なほど鈍感で、この姿を見て僕の体の一部分に一つ変化が起きていることにしばらく気がつかなかったし、その意味については全く知らなかったので、ポリフェムスという最大の敵を前にした緊張の影で、ただ戸惑っていたのである。それでもとにかく、その姿は、僕に一種の欲望を呼び起こすほどの衝撃を持つものだった。
それは辺根さんだった。辺根さんが、ぐったりとしながら、ポリフェムスに腕一本で抱きかかえられている。
相変わらず、ポリフェムスは僕の方をにらんでいる。いや、相変わらずではなかった。今はもう明らかに、ポリフェムスは、僕をにらみつけていた。
――どうなってるんだよ。
わずかに震えながら、僕は肩の上のウーティスを見やり、言った。ウーティスは、一度目を閉じて、そしてまた笑い、こう答えた。
――さあね。見たとおり。それだけのことさ。
そしてウーティスは僕の肩から飛び去った。ポリフェムスがそれを追いかけて、急降下していく。最初は呆然としながらも、僕は、気合いを入れ直してそれを追いかけた。
降りたところ、木々がへし折れた山のなだらかな斜面で、僕とポリフェムスは再び対峙した。ウーティスの姿は見えない。
ポリフェムスが周囲を見回したのが分かった。たぶんウーティスを探していたのだろう。しかし見つからなかったことで、ポリフェムスは、はっきりといらだった様子を見せた。
そして抱きかかえていた辺根さん(まだ目は閉じられていて、目覚める気配はない。いや、そもそもこのとき本当に彼女の心臓は動いていたのか? 僕には、明るさを失いつつある空の下で、頼りない視覚がとらえた情報しかなかった)を見やると、その胸に手をあてがった。すると彼女の足下から真っ白い光(あの怪物が放ったものとは違う色をしている)が立ち上り、きらきら輝いていたと思ったら、いつの間にか、彼女は透明なガラスか氷のようなものの中にいた。
だらりと手足は下がり、目は閉じられ、力ない様子は変わらない。ポリフェムスがそんな風に彼女を閉じ込めたのは間違いなかった。しかし、僕はなぜそうしたのかと問うことすら忘れて、こんな言葉をポリフェムスに向けて発していた。
――どういうつもりだよ。
――何のことだ?
――その子に何の用があるんだよ。そこから放せ!
――それはできない。全てが終わるまで、眠っていてもらう。
――その子には何の関係もないだろ!
――今までは、な。だがもう、そうではない。
――だったら……
僕は拳を握りしめ、歯を食いしばり、全身をこわばらせた。周りの空気が一つ渦を巻いて、落ち葉や土が舞い上がった。
――力ずくで助け出してやるよ!
言うが早いか、僕は地面を、空気を蹴り、対峙していたポリフェムスに向かった。ポリフェムスは横に飛びすさって身を翻し、僕の攻撃、と言うか僕そのものを躱した。
悪魔。ウーティスが以前ポリフェムスを形容するために持ち出した言葉が脳裏をよぎった。そんな相手がここにいるのだと、現前しているのだと思った。これがたぶん最後の戦いになるのだろうとも。
『派手にやってしまいなよ』。ウーティスの言葉が、耳の奥で響いた気がした。力がまだ全身にみなぎっているのを感じた。
僕は視界の隅にポリフェムスの姿をとらえ、そちらに向かって蹴りを放った。しかしそれは空を切って、ポリフェムスは後ずさった。
僕は手を打ち合わせ、光球を出現させた。そして、めいっぱい大きく両手を放し、光球を巨大化させると、
――カリュブ、ディシーラ……
つぶやくようにその言葉を唱え、
――ストォーム!
最後の叫びとともに、思い切り担ぎ上げた光球を、ポリフェムスに向かって投げつけた。
ポリフェムスは、今度はその場から消えてなくなって、僕の『必殺技』を避けた。もちろん本当に消えてなくなったわけではなくて、そのくらいの素早さで、跳躍していたのだった。
僕がそのことに気づいたときには、もうポリフェムスは拳を振り上げながら急降下してきていて、僕はそれを両腕で防ぐので精一杯だった。交差させた両腕にポリフェムスの拳が突き刺さり、僕は馬鹿げたほどの勢いで吹き飛ばされ、木を一本へし折ってようやく止まるという有様だった。




