(9)別れの瞬間に行き着くとき(その日)-3
また全身からあふれ出した。激しい運動のせいではない、冷や汗というやつだった。僕は音の聞こえる方、つまり後ろへゆっくりと振り向いた。
黒い大きな影が、夕焼けの色が濃くなり始めた空の下の森に、むくむくと出現した。最初僕は、何か、目に視界を遮るゴミみたいなものが張り付いているのかと思った。ところがそうではなくて、それは間違いなく、堂々と僕を見下ろしていたのだった。
山の木々すらも優に超える背丈で、二本足で立っているらしい。長い首と二本の腕、全身は鈍くざらざらした質感で、後の記憶を先取りして言えばわずかに光沢を持つ鱗で覆われていた。手足は丸太のように太く、その指や爪は長く伸び(これも記憶の前借り)、長く伸びた首に乗った頭には二本の角が生え、目は赤くぎらぎらと光を放っている。背中には(同前)役にも立たない小さな羽が生えていた。
一言で言ってしまえば、それは、竜と言うべきものだった。西洋的な姿だったから、ドラゴンと呼ぶべきかもしれない。それが大きな口を開けて、咆哮を上げながら、僕を見下ろしていたのだ。
ああ、こいつは確かにウーティスの言う通りの『怪物』だなと、頭の隅っこに押しやられていた冷静な僕が、僕自身に向かってささやきかけていた。
全身が震えていた。ほぼ一週間前に立ち向かった、あの馬鹿でかい蜘蛛の方が、よっぽど僕にとっては嫌悪感が強かった。それでも、そいつは僕の全身を震え上がらせる存在だった。
その竜は、僕にとって、純然たる恐怖そのものだった。気圧され、威圧され、僕はたじろいだ。それでも、あるいはだからこそ、最後のよりどころになっていたウーティスの存在が頭をよぎり、その次にやっと自分の『変身』という力に思い当たった。
僕は、これはかつてない強敵に違いないと、はっきり思った。それだけ、僕はその怪物を恐れていた。そしてようやく、右手を高々と上げて、叫んだ。必死に、どうしようもないほどおびえながらも、それを振り払うかのように、あるいは単に、やけになって。
――あ、アンティノース! ……お……オルタレーション!
これまでに何度も叫んできた言葉。たぶんそれまでで一番間抜けな調子。これまでいつもやっていた通りの、服を脱ぐことも忘れて。
そして、僕の周りにあの光が渦を巻き始めた。一瞬で服が破け飛んでしまい、その瞬間に、僕はまずいと思ってそれまでとは別の形で青ざめ、そして次の瞬間に、あのウーティスの言葉を思い出した。胸をなで下ろす間もなく、咆吼とともに怪物が僕にその巨大な手を光を遮る影とともに振り下ろしてきた。
――うわあぁっ!
避ける間もなかったし、そう判断する余裕も時間もなかったから、僕は無我夢中でそれを防ごうと両腕を上げた。怪物は振り上げた手とともに倒れかかってきて、とんでもない衝撃が全身を貫いた。
光の奔流はやがて収まっていき、光が姿を変えたブーツが、地面に深々とめり込んだ。僕は『変身』していて力を持っていたし、幸い体も強健だったから、その衝撃に耐えることができた。
しかし反撃のしようもなく、振り下ろされた怪物の手をはねのけることもできず、押しつぶされないようにただ耐えているだけで精一杯だった。足下も柔い。そして次の瞬間、怪物のもう一方の手が真横から僕にたたきつけられた。
僕は冗談じみた勢いで吹き飛ばされ、頭から樹に激突した。目の前に星が駆け回り(こんなことが本当に起きるのだと僕は初めて知った)、遅れて、激しくも鈍い痛みが後頭部から襲ってきた。
視界がぐらぐらと揺れて、やっと立ち上がって顔を上げたときには、怪物の次の一撃が待っていた。今度は力任せに怪物の手が僕をしっかりと捕まえ、何度も樹にたたきつけられ、それはその樹がへし折れるまで続いた。めきめきと激しい音を立てて樹が折れるというか割れるというか、とにかく破壊され、やっと僕は解放された。




