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(6)一つの心にとっての全て(三日前)-6

 やがて彼女は戻ってきた。お盆に乗せられた菓子と、ポットにカップ二つという、絵に描いたようなティーセットを持った母親を伴って。


 いくら僕でも、友達の家でもてなされるという経験がなかったわけではない。しかしその日彼女の家で食べた菓子(チョコチップの入ったクッキー)と紅茶(アッサムという名前だったと後知恵を付け足して記憶を捏造してみるのもいい)は、経験したことがないほどおいしかった、かどうかは正直に言えば分からない。少なくとも、僕の記憶の中に似たものを見つけ出すことができないような経験ではあった。


 辺根さんの家だったというのが、もちろん特別なことだったと思う。しかしそれ以上に僕にとって特別だったのは他にもある。家にいる母だとか、出される菓子や紅茶だとか、別にそこに理想やら目標やらとかいうようなものが重なったわけではなかったけれど、僕は(なぜか)、そういうことにひどく胸を打たれていたのだった。


 彼女はぎっちりと詰まった本棚からお目当ての文庫本を手慣れた様子で指一本でついとやって取り出して、陰気な男がバー(がどういうものなのかは今もよく知らない)のカウンターで腰掛けているという図が描かれた表紙を僕に示しながら、それを僕に手渡した。確かに彼女が言っていたように、その表紙に書かれていた題名は、僕がその日の帰り道に彼女から渡された、僕が持っていて彼女に貸していたヴァージョンとは違っていた。


 ――解説がおもしろいんだよ。友利くんが貸してくれたやつのことも、書いてある。


 僕はミルクと砂糖を紅茶に溶かしながら、彼女がそう言うのを聞いた。注意深く、音を立てないように僕は紅茶をすすった。そしてぐっと半分ほどを一気に飲んでから、カップを置いた。そして文庫本を開いてみた。


 顔を上げてみると、辺根さんは笑っていた。何かを期待するように、というのは白々しい表現というもので、彼女が何を期待しているのか、何を予想しているかは分かっていた。分かっていないなんて、鈍感どころか冷感症(不穏当な言葉!)というレベルだろう。


 僕は彼女の期待に応え、文庫本を開いてみた。まず気がついたのは、納められているそれぞれの短編の題名も、表題と同じように、少しずつ違っているということだった。ぺらぺらとページをめくっていくと、次々にそんな小さな驚きが現れた。どちらの方が正しいとかいうことは僕には分からないし、別に分かりたくもない。そこで重要だったのは、ただ違っていて、それを彼女が見せようとしていたという事実だけだった。


 やがて末尾の解説にたどり着くと、僕はカップに残っていた甘ったるい味に変貌してしまった紅茶をぐっと飲み干してから、それを読んでみた。そんな挑発的な口調、いや文調で書かれていた文章を読んだのは、初めてのことだった。批判とはこういうものかと思った。それはもちろん僕に向けられていたわけではなかったけれど、小説の内容のうちに僕が全く気づいていなかったことについて書かれているのを見て、顔が熱くなるのを感じた。ものを読むとはこういうことなのかと思い知らされた、あるいは、僕の読むということについての態度を叱責されているような気がした。


 こういう経験をこの年頃にできたというのは、たぶん有益なことだったのだろうと思う。それを今の年頃に至るまで全く生かすことができなかったどころか無駄にしたのは、全く愚かなことだろう。そうなった経緯はある程度僕自身も自覚しているから、後で話すこともあると思う。少しだけここで言っておくならば、僕はこういうことの全てを、思い出として記憶の中に凍結させてしまったのだろう。


 解説を読んでいる間、僕は夢中になっていた。その間、辺根さんは辛抱強く、紅茶に、僕のとは違って透明な琥珀色をしたままのそれに口をつけながら待っていた。笑っていたような気がする、というのは、僕が記憶を都合良く解釈しているせいだろうか。


 僕は解説を読み終えた。目を文庫本から離すと、最初に、わずかな紅茶を残してほとんど空っぽになった(僕の)カップが目に入った。次に全く中身の減っていないクッキーの乗せられた皿、そして、カップを両手で顔の前に抱える彼女の姿。やはり彼女は、微笑んでいるように見えた。


 ――ありがとう。


 僕はそう声を漏らした。発するというよりも、全く意識をしないうちに、本当に文字通りに、言葉が漏れ出ていた。

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