(6)一つの心にとっての全て(三日前)-3
彼女がこんな姿でいるのは、きっと僕の前だけなのだろうと、何の根拠もなく思った。彼女と、続く言葉のために息を整えようとしている彼女と見つめ合っている間、彼女と話したり、一緒に歩いたりした時間の思い出が、切れ切れの断片になっていくつもいくつも脳裏をよぎっていった。
――約束、してたでしょ、今週にって。
彼女はそう言った。
ああそういえば、と、自分でも不思議なほど、彼女が何のことについて話しているのか、自然な流れのうちに、当然のように、あっさりと、明瞭に、あっという間に理解していた。まるで、彼女が言わなかったこと、言おうとして頭の中に用意していた言葉や記憶、回想された未来までを、直接感じ取ったかのように。
その言葉に続けて、彼女は、ランドセルを下ろして中身を探り出した。そしてすぐにそれを見つけると、僕に手渡したのだった。
それは一冊の文庫本だった。二週間ほど前に、僕が彼女に渡していたもの。書店のカバーを掛けられたままだったけれど、その書店の名前と本の厚み、カバーのこすれ跡や折れ込み具合で僕にはその中身がはっきりと分かる。
ほぼ百年前に出版された有名なアイルランド出身の作家の短編小説集、の翻訳版。読んだり鑑賞したりということに絶望的に鈍い感性しか持っていない僕でも、どうにか読むことができたもの。
鹿屋さんが勧めてくれたもの、という思い出に意識が触れると、その感触で、涙が湧き上がってくる気がした。しかしそれがこぼれ落ちたり目にたまったりする前に彼女が続く言葉を発してくれたから、僕は彼女の目の前で泣き崩れたりせずに済んだのだろう。
――ありがとう、これ。読んだよ。
彼女はようやくなめらかに声を出せるようになったらしく、はあと一つ息をついてから、そんな風に言った。
僕が聞いてきた通りの、あっさりとした口調。なぜだかそれは、顔をほころばせてくれるほど、僕を安心させた。そして辺根さんと歩く帰り道を歩く感覚が頭の中によみがえり、そのときと変わらない彼女が目の前にいるという単純きわまりない事実に、今更になって気がついたのだった。
彼女は約束してたと言った。つまりは、僕が彼女に渡していたその本を返すことを。僕たちには、無論(これはこれでうってつけの言葉)、そこまでの言葉は必要ない。
互いに事情は分かっていた。だから、彼女が『約束』という言葉を口にした瞬間には、もう本を手渡されるところまでは、未来のことを回想しているかのように、何が起きるのかをはっきりと悟っていた。しかしというかだからというか、次の瞬間の彼女の言葉は、全く僕が予想していなかったものだった。
――それで、見せたいものが、あるの。
何を、と僕が言う前に、彼女は言葉を続けていた。そんな風に饒舌な(そこまで言うほどではないにせよ)辺根さんを、僕は見たことがなかったと思う。
別に彼女は僕の言葉を遮ろうとしたのでは全くなかった。ただ自然に、しゃべっていたのだ。
――同じのだけど、違う人が訳したやつ。題名も違ってるの。中身も結構違ってて、解説も面白くて。だから、読んでみない?
――あ……ありがとう。あっ、いや……
いつの間にか笑っていた彼女の表情が、僕の返事を、正確には返事のなりかけを聞いて、怪訝なものに変わっていった。
彼女の言葉を聞いて僕がどう思ったのかと言えば、まずは素直に、ただうれしかった。彼女の言葉の内容に興味が向いたと言うよりも、彼女がそんな提案をしてくれるという事実が、本当にうれしかった。
こんなことを話せるのは彼女しかいないという事実が、今更のように感じ取れた。疎外によって強まっていた孤独感、僕がそれを嫌悪することになるなんて思ってもいなかった一人でいなければならないという孤独感が、彼女がそこにいて、彼女が僕に話をしてくれるという事実によって、これほどまでに救われる思いに変わっていくとは、僕自身、全く考えてもいなかった。
だがすぐに、こんな思いというか考えが、頭の中に現れた。彼女を、僕に、疎外された僕の立場に、巻き込むことにはならないか、と。そしてそれはきっと、決してそうさせてはいけないことに違いないのだと。
そうやって考えたから、僕は彼女を待たずに教室を出たのではなかったのかと自問した。僕に対する周囲の視線や噂話は、蜘蛛の糸のように(あの化け物が思い出される)僕の身に絡みついてきていた。




